呼び続けた。



1*美浜と誠吉

 美浜(みはま)、という名の女だった。
 寒い地の分限者の娘で、上に兄がいた。美浜、の名前にもあるとおり家は海の近くにあった。けれど美浜はその浜を美しいと思ったことはない。記憶の中にあるそれはいつもどんよりとした雲を戴き、海の色は灰青だった。砂浜はじっとりと湿っていて、打ち上げられているのは綺麗な貝殻などではなく海藻の切れ端や流木ばかりだった。
 大きくなったら絶対にここを離れよう、できれば海のないところが良い。潮風も海の匂いもない場所だ。美浜はずっとそう思っていた。幸い兄がいる、仮にずっと家にいたいと思ってもいられる身分じゃない。ならば大腕を振って遠くへいける。いけるはずだった。いきたかった。


「どういうことですかっ」
 美浜は鋭い声で父に問うたが、答えはなかった。骨と皮ばかりに見える色黒の父親――美浜は潮風が父親の生気を奪っているんじゃないかと満更でもなく思っている――は、
「決まったことだ」
と言ったきり場を離れた。
 美浜の結婚が決まった。相手は網元の息子で歳は一九、美浜より三つ上だ。美浜は目の前が真っ暗になった。
 嫁ぐのが嫌だったわけじゃない。父が勝手に相手を決めたのも仕方がないかと諦められる。しかし、どうして網元の息子なのか。この海を離れることができないことが辛かった。
 嫁いだら一生、海の風と塩の臭いにさいなまれ生きていくしかないのだろう。美浜自身、どうしてこんなにも海が嫌いなのかわからないが、とにかく海を離れることができないということが美浜を絶望させた。
 美浜は家を飛び出した。行くあても去る勇気もないこと知られているから、家の者は誰も追ってこない。
 走ったのは最初のちょっとだけで、すぐにとぼとぼ歩きに変わった。梅雨時の湿気に塩気が混じり、もんと肌に纏わる。不快だ。一筋涙が伝ったが、塩の味がする涙がさらに気持ちを沈ませる。
 歩き続け、社に辿り着いた。少し小高いところに建つ社で、周りに木々が鬱蒼としているからか潮風もあまりない。社の中で膝を抱え、美浜は泣いた。
「誰かいるんですか」
 そう問われたのは泣き始めてからどれくらい経った頃だろう。男の声だった。美浜は急に恐ろしくなって息をひそめた。男の声に悪意は感じなかったが、こんな林の中で見知らぬ男とふたりきりなのだ、恐ろしい。胸がばくばくと鳴り、痛い。
 そうは言っても息をひそめたところでもう遅く、木板のきしむ音がする。男が中に入ってきたのだ。足音が一歩近づいてくるごとに美浜の体は重く動かなくなっていく。
「どうなされました、お嬢さん」
 社内に射すわずかばかりの光が照らしたのは、若い男の姿だった。浜では見かけない色白の肌。異人のようにすっと鼻筋が通っている。美浜の胸鳴りの種類が変わった。
「あ、あなたは」
聞く声がかすれた。男はにっこり笑って答えた。
「誠吉といいます」
誠吉、その名をしかと心に刻んだ。
「どうして、ここに」
 誠吉は穏やかな顔のまま続けた。
「網元さんの所に遊びにきたんです。そうしたらこの近くに社があると聞いて。好きなんです、こういう静かな所を散歩するのが」
美浜はその顔に見とれた。無邪気そうな笑みだ。その裏で、網元いう言葉に吐き気を覚えた。
「でもまさかお嬢さんが一人で泣いているとは思いませんでした、どうしたんです」
 瞳にかすかな懸念を浮かべて、誠吉が聞いてきた。
「わ、わたし」
声が震えた。震えた声が涙を連れてきた。涙が海を思い出させ、あふれた思いが行き場を求めた。
「海が嫌いっ」
 叫んで美浜は誠吉に抱きついた。突然抱きつかれ均衡を失った誠吉の体は美浜もろとも床に崩れた。
「落ち着いて、落ち着いて」
誠吉は美浜の肩を抱き、まっすぐに瞳をのぞいてきた。
「良ければ、なにがあったのか話してくれませんか」
 美浜は全部を話した。自分が浜の分限者の娘であること、海が嫌いなこと、どこか遠く――海のない場所に行きたいこと。嗚咽が混じり遠回る美浜の話を誠吉は黙って聞いてくれた。
 最後まで聞いて、そこでやっと口を開いた。
「美浜さん、もしかしたらどうにかなるかもしれません」
「え」
まさかそんな言葉を聞けるとは思っていなかった。せいぜいありふれた慰めの言葉を言われて終わるのだと思っていた。
「どうするんですか」
誠吉は真剣な目をした。真剣な口調で言った。
「私の嫁になるのです」
「……は」
冗談かと思ったが、冗談だと割り切るには誠吉は真剣すぎた。
「あのね、美浜さん」
 誠吉が語り出す。誠吉はここよりもっと南の山奥の村に住んでいるらしい。村では名のある家で一人息子だという。
「私の方から、話してみましょう。自慢みたいに聞こえるが、家格は網元より私の方が上だ。あなたのお父さんだって頭ごなしに駄目とは言えないだろう」
誠吉の話はひどく魅力的に思えた。山奥の、海のない土地。だけれど魅力と同じくらい無理な話にも思える。
「だって、もう婚姻は決まってしまっているんですよ」
 誠吉も頷いた。
「はい、わかっています。でも今日あなたに話した段階と言うことは、まだ多くの人に知れ渡っている状況ではないでしょう」
誠吉の言葉が美浜の不安を溶かしていく。真剣な目に若干の躊躇と懸念を含ませ、誠吉が続ける。
「あなたに嘘はつきたくないので、本当のことを言います。実は私も今少し、難し立場にあります。だから今すぐというわけにはいかない。時間を下さい、必ず何とかしてみせますから」
「ほ、本当に」
「ええ、必ず」
 誠吉の真剣さが伝わってくる。誠吉はきっと本気で美浜のことを心配してくれているのだろう。でも、
「どうして」
新たに生まれてくる不安。
「どうして、初めて会ったわたしにここまでしてくれるんですか」
ただ助けようというのではない。嫁にしてまで助けようというのだ、わからない。誠吉の真意がわからない。
 誠吉の瞳が揺らいだ。
「それは、あの」
言い淀んでから、まっすぐに美浜を見つめた。美浜の胸がとくんと鳴る。
「あなたに、惚れました」
言い終わるなり、誠吉は美浜を抱きしめた。
「網元の息子にとっては相手はあなたでなくてもいいはずだ。でも、私はあなたが良い」
 美浜の頭は真っ白になった。男に抱きしめられたのは初めてだ。こんなに安心するものなのか。誠吉だからなのか。真っ白な頭の中を、答えのわからぬ問いばかりが通り過ぎていく。最後に残った言葉を、美浜は呟いた。
「わたしも、あなたが良いです」
さらに強く抱きしめられる。
 すす、と誠吉の指が美浜の首筋をすべった。汗ばんだ肌の上をぞくぞくと痺れが走る。
「誠吉さん」
誠吉が美浜の頬を抱き、そしてくちびるを重ねた。美浜の口から息がもれる。自分で聞いても色っぽい声だと思った。
 声が出なくて、仕方なく誠吉の着物を握り締めた。誠吉さん、誠吉さん。しばらくすると誠吉は美浜から顔を離した。
「私はあなたを愛している。証を残して、良いですか」
切なげな瞳が潤み、美浜を見つめていた。綺麗な瞳だ。嫌という理由がどこにあるのだろう。美浜は頷いた。
 誠吉の右手が、着物の襟と肌の間をなぞるように動いた。なぜか涙があふれてくる。誠吉の右指は美浜の首の窪の辺りを何度か往復する。溢れすぎた涙が、頬を伝った。
 それを機としたのか誠吉は美浜の方に手をかけ、ゆっくりと床に倒した。馬乗りになり美浜を見下ろす誠吉。目の綺麗な男だと思った。誠吉の顔が近づいてくる。近づいて、今度はくちびるへは行かず耳元へ。囁いた。
「美浜、愛してる」



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