四秘籠―ヨツヒコ―



四秘籠の四*だれか

 誰に言ったっていいよ、誰も信じやしないけどね。
 珍しいね、あんた。あたしと話したいって奴自体珍しいけど、昔の話だって、はん、珍しい御仁だ。まあ、布団の中で睦言を交わしましょうって言われてもむしろ困るけどね。それが仕事なんだろうけど、苦手なんだよ、そういうのは。だからさぁ、客も付きやしない。
 え、綺麗だって。ふふ、ありがとう。睦言を交わすのは得意じゃないけどさ、やっぱ綺麗だ好きだって言われんのは嫌いじゃないのさ、女だもの。まあ、あたしは自分の顔を見ることができないんだから、あんたの言葉を信じるとしよう。あたしは綺麗だ。うん、目がね、見えないんだよ、あたしは。同情すんじゃないよ。さ、とっとと話を始めよう。時間が残っていたら、一発やってあげてもいいよ、いや本当はそっちが本業なんだけどさ。
 あ、そうだ。初めに言っておくけどさ、あたしは林蔵なんて男知らないからね。そりゃ、昔の客にそんな名前の男がいたかも知んないけど、覚えてないよ。それでも良いんだね。よし、わかった。
 ――――――――。
 あたしはここよりずっと北で生まれた。物心っていうか、覚えている一番最初の想いは寒さだった。冬に生まれたんだろうかねぇ。海の近くでさ、透き間風はべたべたしていて、いつも生臭かった。母親がいて弟がいて、父親はいなかった。父親はたしか、あたしが生まれた海辺の村よりももっと南の、山奥の村にいるって言っていたかな。金持ちだったらしよ。名前はなんて言ったかな、いや、母親の名前は覚えていないんだけど、父親のは覚えているよ。その場にいるわけでもないのに、よく父親の名前を呼ぶ人だったんだよ母親は……ああ、そうだ、誠吉だ。本当に憎らしそうに、父親の名を呼ぶ母親だったよ。
 弟のことかい。かわいい弟だったよ、顔は知らないけど。歳は同じなんだ、生まれたのが奴の方がちょっと遅いってだけ、双子だったんだよ。ふたりして目が見えなかった。というよりも、弟は目を開けちゃいけないって言われていたんだ。平生、母親は弟にばっか甘くて優しくて胸糞悪い思いばっかあたしはしてた。けど目を開ける云々に関しては母親が弟に向ける言葉は普段の甘さを吹き飛ばすくらい恐かった。
 あたしは理由を聞きたかった。どうして目を開けちゃいけないの、開けたっていいじゃない、外の綺麗なものを見せてやっておくれよ、おっかさん。弟だって聞きたかっただろう、でもね、あたしらには聞けなかった。母親の様子があまりにも恐かったから。目が見えなくたって、いや見えないからこそあの“気”の凄さがわかった。ひと通り弟に怒った後、いつも母親はふと醒めたように、最後に、
「その目を見せるのは、一人だけでいいのよ」
っていうんだ。その一人が誰かなんてあたしにはわからない。でも多分、弟は知ったんだ。というより、母親から聞いた。だからある日忽然と消えた。
 そう、消えちまったんだよ。弟は。
 いつのことだったかね、春だったか秋だったか。夏とか冬じゃない、そんな生き苦しい季節じゃない。過ごしやすい陽気の夜でね、あたしらは固い床に寝転がって、寝る前だった。弟の手を握ってね、あたしは寝ちまおうとした。そうしたら、母親がいきなり話しはじめるんだよ。「これは、あんたたちの生まれに関する話だよ」って。何かと思うだろう、秘密や曰くありげだ。あたしだって気になったさ、気にはなったけどさ、それ以上に眠かったから「ねえ、おっかあ、今は眠いから明日にしてよ」と言った。でももう母親は話し始めていて、話を止めるけっぷりもなかった。「むかぁし、むかし」って妙に艶めかしい決まり文句の後に、母親は突然言った。
 おっかさんは死んでんだ。あんたらを腹に宿したまま死んだんだ。
 あたしはぎょっとした。隣の弟もびっくりしたんだろう、あたしの手を握る手にぎゅって力がこもった。あたしは、うそだぁって叫ぼうとした。起き上がってね、母親を見つめてね。叫ぼうとしただけで、実際は体はぴくりとも動かなかった。驚いて、眠気なんか吹っ飛ぶくらい驚いているはずなのに、どんどんどんどん引き込まれていくんだよ、母親の声が遠くなっていくんだよ。ほとんど夢に呑まれた現の中で、縫い糸みたいに細く母親の声が聞こえてきて、消えた。
 あんたらのおとっつぁんは名を誠吉と言ってね、ここよりもっと南の山奥の分限者だった。あんたはね……
 そこから先を聞くことなく、あたしは眠っちまった。そこまではいつも聞いて知っているのに。真っ暗な中で、弟が握る手に力を込めていくのだけを感じていた。途中からは痛いくらいに。あの子、何がそんなに憎かったんだろう、そう、きっと憎かったんだ。恐い話だから手を握ったのとは違うよ、あれは。憎くて、憎くて、でも憎い人が目の前にいないから気持ちのやり場が見当たらない感じだ。おっかさんは、なにを話したんだろうね。
 次の朝目覚めると、弟はいなくなっていた。どこを見てもいないからあたし、べそかいて母親に聞いたよ。母親は、さあとしか答えなかった。その時、小さいながら思ったよ。
 ああ、あたしは独り、仲間はずれなんだなって。
 おまけだったんだ。母親にとっては弟だけいれば良かったんだよ。母親には憎い人がいて、弟の中にも憎い人が出来上がった、でもあたしには憎い人なんていない。ほら、仲間外れだろう。母親は、あたしらの生まれに関する話を弟にしかする気はなかったんだよ、最初から。
 思い出してごらん。あたしが眠る前に聞いた言葉。最後に母親は『あんたはね……』といったんだ、あんたら、じゃない。あんたはねの後に弟の名前を加えて呼んだのかもしれない。
 弟がいなくなってからしばらくは母親と暮らしていたけど、我慢ならなくなって飛び出してきたよ。だって、弟が出て行ってからあの人、すっかり生きていないんだ。ずうっと部屋の隅でぶつぶつ父親、誠吉のことを呼んでいるんだもの。薄気味悪い。世話をしていたあたしがいなくなって、どうなったんだろうね。呼び続けたままくたばったのかね。
 あら、やだ、そんなこと言わないでよ。人でなしなんて、呆れるような声で。大丈夫、母親の話が本当だったならあの人はもう死人なんだもの。想いだけで生きているようなものなんだもの。それにもう一つ、大丈夫な理由がある。
 あたしは人じゃないんだから。いや、全うな人じゃないっていった方が良いのかな。
 あたしが母親の元を飛び出しから、かれこれ七、八十年経つんだよ。ねえ、あんた、あたしは婆さんかい。ね、綺麗な女だろう。こんな人間いない。
 たぶんさあ、ある目的のためにあたしは、こういう風だと思うんだ。なにかね、復讐とかはどうだい。若い体のままだと何かと都合がいいだろう、色仕掛けでさ、近づいて復讐してやるんだ。しかもこれだけ歳をとるのが遅けりゃ、世代を超えて祟れると思わないかい。じいさんの代の恨みをさ、孫に色仕掛けして晴らすとか。はは、下らない妄想だねぇ。見た目は若くても歳なんだよ、下世話な話ばっかりが好きなんだ。
 まあ、仮に本当に目的があってこういう体をしているのだとしても、それは弟の役目だ。あたしには目的なんて何もない。ただ生きて、死んでいくだけだ。どんなに歳をとるのが遅くたって、ちょっとずつは進んでいるんだ。いつかは死ぬだろう。
 ああ、そろそろ時間だ。どうする、金払えばやってやらないでもないよ。そうかい、行くのか、そうだろうね、あんたはそうだろうよ。じゃあね。

 あたしの話、信じる信じないはあんたの勝手だよ。誰に言ったっていいよ、誰も信じやしないけどね。

- 終 -



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