暮れ間に沈む



ただあの日の、今には何の意味も為さない話*1

 狸沼には近づくな。
 私の記憶はそこから始まる。いくつくらいの時であったろうか、とにかく幼い私にそう言ったのは祖母であった。優しい人で、人柄を表したように丸い顔にいつも笑顔を湛えている人だった。なのに、そう言ったときの顔は、笑顔ではなかった。少し怒ったような、恐い顔。
 わたしはあまり言われたことはなかったが、その言葉を毎日のように言われている子どももいた。私の故郷に伝わる、ある種のまじないの言葉のようなもの。
 私の知る限り、私だけがその言葉の意味を知っている。それを言わせる存在も。
 狸沼には、近づくな。


*****




 真夏のうだるような暑さの中、濃い灰色の雲からは音もなく霧雨が落ちている。じっとしていると、汗なのか湿気が集まったものなのかわからない水が首筋を伝う。暑くて、むしむしして、最悪という言葉はこういう時のために使うのではないだろうかと思った。
 でもそれは、午前までのこと。昼過ぎには青空と入道雲が現れた。太陽が地面を乾かしていく。さあ、遊びに行こう。エイスケは野球帽をひっつかむと外に飛び出した。
「行ってきます」
語尾を間延びさせ大声で叫んだが、返事はなかった。
 そうだ、今日はおれひとり、留守番だ。お父さんもお母さんも祖父ちゃんも祖母ちゃんも姉ちゃんも、誰もいない。おれだけ。みんな出かけていて、エイスケだけ。
 約束を破るには、ちょうど良いような気がした。
 狸沼に行ってみよう。
 エイスケは走り出した。向かう先はヨウタの家だ。一クラスしかない小学校の同学年、五年生。男子がたった九人のクラスの中で、ヨウタは一番家が近く、そして仲が良かった。エイスケの家の隣りの隣の家――と言っても田舎なのでそれなりの距離があいているけど――。
 汗でTシャツがびしょ濡れになったころ、ようやくヨウタの家が見えてきた。ヨウタの家は道から少し外れたところにあって、五〇メートルくらいの細道を行く。道の左右はヨウタの家の畑で、ヨウタの祖母ちゃんがいた。しゃがみ込んでなにかしていた。
「こんちは!」
大声で言いながらエイスケは横を駆け抜ける。ヨウタの祖母がよっこらせと立ち上がり、おや声の主はどこだろうと辺りを見回すころにはエイスケはヨウタに声をかけているだろう。
 ヨウタの家は大きい。むかし茅葺屋根だったらしく、家の高さのわりに急なこう配の屋根なのだ。そしてうす暗い。だからもし、テレビゲームや漫画を読むのならふたりはエイスケの家に集まる。
 でも今日は違う。
 ヨウタはぽつんと縁側に座っていた。たらいに浸した足の先を、ぼんやりと眺めていた。
「ヨウタッ」
 ヨウタが顔を上げる。
「エイスケ」
「あそぼうぜ」
「うん、雨やんだね」
軒下から空を見上げ、ヨウタはにこりと笑う。
 ヨウタとはとても仲が良いけれど、正反対だと思う。仲が良い悪いとは別に、ヨウタにはどこかエイスケと違う部分があるような気がするときがあった。
 ヨウタは濡れた足をタオルで拭いている。エイスケだったらそのまま廊下を走っていってしまう。それで後で、家族の誰かに怒られるのだ。
「待ってて」
暗い家の中に消え、玄関から出てきたヨウタの手には麦わら帽子。
「行こうか、エイスケ」
「おう」
エイスケは返事をし、これから行く場所に思いを馳せた。
 ふたり、横に並んで歩く。でこぼこコンビだ。ヨウタはクラスで一番背が低く、エイスケは高い。あとヨウタは肌の色が白くて、着ている服も襟の付いた服が多くて――今は紺と灰のボーダーのポロシャツにハーフパンツ――、ほとんどTシャツしか着たことないエイスケとは大違いだ。実際、男女を含めたクラスのなかでヨウタは一番かわいかった。クラスでエイスケが一番かっこいいかはわからないけれど、色々な意味で正反対。
「ねえ、どこ行くの。ゲーム?」
 ヨウタが聞いてくる。エイスケはちらりと周りを見回す。近くにヨウタの祖母がいるけれど、まあ聞こえないだろう。それでもウタの耳に顔を近づけて、ささやく。
「狸沼」
「……っ! だって!」
「しっ、だまれよ」
信じられない、といった風にヨウタは目を見開いて立ち止まった。狸沼とは山の上にある沼なのだが、エイスケたちが通う小学校で見たことがある者は誰もいない、幻の沼なのだ。
「行っていいの?」
 ヨウタが小声で聞いてきた。上目づかいのヨウタの目には疑わしさと、かなりの好奇心。
「行くなってよく言われるけどさ、大丈夫だよ、落ちないように気を付ければ、な?」
にかっと笑うと、ヨウタも困ったような笑いを見せた。だめと言われていることをしてしまう自分を少し後ろめたく思っているのだろう。ヨウタとはそういう奴だ。
 狸沼には行ってはいけないと、大人たちはよく言う。じいちゃんもばあちゃんも、お父さんもお母さんも姉ちゃんさえも、口をそろえて注意してくる。狸沼には行ってはいけない。なのに誰も、理由は教えてくれないのだ。
「大丈夫だって、本当に。それにさ、ヨウタは狸沼に行っちゃだめなんてほとんど言われないだろ。落ち着いているからだよ」
ヨウタは一瞬くるりと目を回してから、「うん、まあ」と小さく返事をした。
「つまりさ、俺に行くなって言うのは、俺がそそっかしくて落ちたら危ないってだけで、それ以外の意味なんてないんだ」
「……そっか、そうだよね」
ヨウタの目が輝いく。
「うん、狸沼に行こう」
そう言ったヨウタの声は、小さいけれど弾んでいた。
 そのとき、ヨウタの祖母が声をかけてきた。思ったよりも近くにいた。話を聞かれたかとぎくりとしていると、
「今日はどこさ行くんだい」
にこにこしながら聞いてきた。ひと安心だ。
「ダイキ君の家に行ってくる。みんなでゲームをやるんだ」
「そうかい、あんま遅くらなねうちに帰ってきなよ」
「うん」
ヨウタがすらすら答え、ふたりは再び歩き始めた。
「なんでダイキの家に行くなんて言ったんだよ」
 エイスケはちょっと不満げな声をあげた。エイスケの家に行くと言った方が、嘘がばれることが少ないのに。
「だってさ、狸沼に行くにはここを右に行くでしょ。エイスケの家は左に行くから、そっちの方がすぐに嘘だってわかっちゃうよ。おばあちゃんはね、ああ見えて勘が良いんだ」
「ふぅん、なるほど」
そこまで咄嗟に考えられるなんて、やっぱりヨウタはすごい。物静かなやつだけど、やるときはやるのだ。
 舗装された道の上はあまりの暑さでゆらゆら揺れていた。しばらくいくと、砂利道の横道がある。舗装道との境には鳥居。ここが狸沼へと続く山の入り口。だらだらと続く登り坂は曲がって、木々の中に呑まれている。
 山の中に入ること自体は禁止されていないのに、ふたりはやけにきょろきょろしながら、その道を進んだ。
 森の中を進む道は、舗装道とは比べ物にならないくらい涼しい風が吹いた。蝉の鳴き声が雨みたいに上から降り注いでくる。
「あっ、今、蛇がいた」
ヨウタが叫ぶ。
「どこっ!?」
エイスケは見逃した。
「鳥居の根本のところに、長くて気持ち悪い色したやつ、ヤマカガシだよきっと」
そう言いながら、鳥居を通り過ぎた。エイスケは左右を見て通ったが、蛇はいなかった。
「それにしてもさ、この道って鳥居が多いよね、何本あるんだろう……エイスケ、調べたことあるよね、自由研究で」
「忘れた。あ、でも確か十間ごとにあるんだってさ」
「十間って何メートル?」
「う、んと、忘れた」
ははっと笑ってさらに奥へと進んでいく。
 長い長い坂道は森の中を縫うように続く。十間ごとに現れる鳥居。石でてきたもの、木でできたもの、赤いもの、黒いもの、朽ちかけたもの、真新しくみえるもの。いくつの鳥居を抜けたのか。
「ここだな」
「うん」
目の前にあるのは、たぶん最後の鳥居。朱塗りの大きな鳥居。朱色は濡れているかのように鮮やかな色をしていた。
 鳥居の向こうには、これまた朱塗りの門があり、そこから先は見えない。周りも木の塀で囲まれている。見たことがある子はいないのだが、みんな知っている、この先が狸沼。
「やっと着いたね」
ヨウタがハンカチで汗をぬぐう。エイスケもこめかみから流れる汗を、Tシャツの袖でふいた。
 鳥居を抜け、門に手をかけた――が。
「開かねぇ、鍵かかってるし!」
ショックだった。むくむくと膨れた気持ちが一気にしぼみ、思わずその場にへたり込んだ。こんな山の上まで、ヨウタとふたりだけで来て、狸沼を見られないというなら何をすれば良いというのだ。ふたりではかくれんぼもつまらない。

「命でもあげようか」

「は?」
 エイスケは耳を疑うという言葉の意味を理解した気がした。ヨウタの顔を見る――きっとその顔は一生忘れない。綺麗な可愛らしい顔に薄い笑みを浮かべていた。ぞわっと寒気が背中にはしった。
 ガサガサガサッ
 茂みが揺れる音がしてばっと音がした方を見る。何か黒いものの残像を見た気がした。次の瞬間にはキキキと軋む音がし、体が後ろに傾いだ。
「うわっ」
 門が、開いたのだ。
 反対向きの景色が目に飛び込んでくる。そこには沼があった。エイスケは急に恐くなった。恐いと感じる前に、目頭には涙が溜まっていた。飛び起きる。
「ヨウタッ」
帰ろう、という言葉は小さなプライドに引っかかった。
「なんで……」
門が開いたのか。声が震え、途中で止めた。
 それでもエイスケはよほど情けない顔をしていたらしく、ヨウタはいつもの笑みのなかでも、少し冗談まじりにエイスケを馬鹿にする笑みを浮かべた。
「鍵がかかっていたんじゃなくて、きっと固まっていたんだよ。ほら、滅多に開けていないだろうし」
そう言われても、恐さは消えなかったが、これ以上言うことはできない。
「よ、よし、行くぞ」
 わざと強い口調で言うと、エイスケは狸沼へ向かい歩きはじめた。
「へえ、見ちゃうとたいしたことないんだね。沼自体は」
エイスケの感想も同じだ。狸沼は、立派な門や鳥居に見合うものにはどうしても見えなかった。
 丸い沼の周りは歩いても三分とかからないほどしかなく、葉の長い草がぐるりと生えていた。水の色は濃い緑色で汚い。

 美しいのは、沼の周りの輪状にめぐらされた砂の帯だった。

 普通の地面がそこで途切れ、一歩分くらいの幅だろうか、深い藍色の砂が敷き詰められているのだ。その先はまた普通の地面で、沼が続く。上からみたら目玉みたいに見えるだろう。
 真夏の炎天に晒された砂は、きらきらと光っている。
 恐さなんて吹っ飛んだ。
「少し持って帰ろうぜ」
「やめようよ、エイスケ。ここに来たことがばれちゃうよ」
「大丈夫だって、見せなければ良いんだ」
 ヨウタの声を聞かず、エイスケはその砂に手を伸ばした。やけに冷たく、思った以上に粒が小さかったのだ。小麦粉に手を突っ込んだみたいに。

 ざわ。

「エイスケ!」
 ヨウタが叫ぶ。それが何を意味するのかわからなかった、のに、エイスケは右斜め前を見ていた。
 なんだ、あれ。沼を囲む、葉の長い草むらの中から現れたあれは、なに?
 狸だ。すぐにわかる、目に映っている“あれ”は、狸。普通の狸とはだいぶ違うのにどうして狸だとわかったのかはわからない。まずどこが違うって、色だ。青緑色のやけに長い毛並みが、葉々とともにゆるい風に揺れていた。毛むくじゃらの胴体から伸びる足はちょうど、枝切れのような色形。
 濃い紺色の、ビー玉みたいな目玉がエイスケたちを見つめていた。
『命をくれるのだってさ、君ら』
「は?」
狸が口を開いたら、人の言葉が出てきた。エイスケはもうわけがわからなくなって、知らないうちにぶるぶる震えていた。
 狸がもう一度口を開く。
『まったく、人の好奇とは可笑しいね、君ら』
すっと狸が一歩、こちらに近づいてくる。エイスケは動けない。
『こんな何もない沼を見るために、命をくれるのだろ、君ら』
 なんのことだよ。
 意味もわからず、恐くて、不安で、すがる気持ちでヨウタを見た。
 帰りたい。帰ろう、ヨウタ。
 しかし、ヨウタはエイスケを見てくれてはいなかった。彼の顔は、いつも以上に青白くて、小皿のように丸くした瞳で狸を見ていた。
「ヨウタ?」
呼びかけてもヨウタは返事をしなかった。代わりに聞こえる狸の声。
『色白の君が言ったじゃないか、君。命をくれないのかい、君……くれないのなら、君ら』
エイスケの首にぐっと絞められる感じがあって、足が地面から離れた。
「ぐ、がぁっ」
『ふたりとも食べてしまっても差し支えないよね、君』
「ちがうよっ」
 ぼんやりする耳で、ヨウタの鋭い声を聞いた。どすん、地面に落ちる。エイスケは激しく咳込んだ。苦しい、恐い、帰りたい。
「ちがうよ、あげる」
ヨウタはもう一度早口で言った。
『ああ、そういうことならごめんよ、騒がしい君』
狸は微かにエイスケの方を向いて口を開いた。舌の代わりに口の中から伸びているのは、蛇だった。赤や緑のカラフルな、薄気味悪いヤマカガシ。
 意味がわからない、意味がわからない、意味がわからない……でも、ヨウタと狸のわけがわからない話の、わかることだけをつなぎ合わせると――。
「死ぬのか?」
現実味のないことが、目の前に迫っているというのだろうか。
『君か君のどちらかがね、君ら。さあ、どちらにするの、君ら』
 そんなの、決められるわけがない。自分か友達、どちらかが死ぬなんて、決められるわけがない。
「ヨウタ」
逃げよう。本気でやばいよ。
 ヨウタをふり返ったエイスケの思考は、そこで一時停止した。ヨウタがエイスケを指さしている。泣きそうな顔をして、視線は狸の方を向き、はっきりとエイスケを指さしている。
「エイスケだよ、エイスケの……エイスケ、ごめん」
ヨウタの右目から涙が一筋流れた。
『ああ、そうなの、君』
エイスケを無視して交わされる会話に、思わず呟いていた。
「なんで」
ヨウタが叫ぶ。
「だってぼく、死にたくないよっ」
 おれだって死にたくない。
 その言葉は言えなかった。ぐっと首に絡まぬ何か、きっと蛇。ぐわんと後ろに引かれると体が宙に浮く。
『まったく失格もいいところだね、君』
狸はたぶん、ヨウタに言った。
 ドボン
 あっという間に沼の中に引き込まれた。汚い水だと思っていたが、口の中に入ってきた水は甘かった。甘い水。
『ねえ、騒がしい君、色白の君を恨まないであげなよ、君』
ヨウタのしたことは酷い。けれど、不思議と怒ってはいない。一瞬の差だったのじゃないかと思う。エイスケはどちらも選べないと思ったけれど、一瞬後にはヨウタを指さしていたかもしれない。ヨウタは一瞬速かっただけ。あの状況では、そういうことがあっても、しょうがない。
 わかった、当然だ。答えようと思わず開いてしまった口から、空気の塊が浮かび上がっていく。でも苦しくはなかった。
 傍から見たら汚いと思っていた沼の水は、中から見るとびっくりするくらい綺麗だった。
 夏の太陽の筋がレースのカーテンのように揺れている。緑の水は、いつか家族旅行で見た、どこかの建物のステンドグラスを思い出させた。
 光の筋と、ガラスのような緑の視界、ゆらゆらと昇っていく気泡が合わさって、ああ綺麗だなと素直に思う。いつの間にか首の苦しさも消えている。
 眠いときに布団に入ったときのような、幸せな気持ち。
『君はなかなか合格に近かったよ、おやすみ、君』
合格? なんのテストだろう。
 わからない。エイスケにはもう何がなにやらわからなかった。ただ、眠たい。
「おやすみ、ヨウタ」
声になっていない声で、言ってみた。
 美しい景色が、ぼやぼやと揺れていた。






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