暮れ間に沈む



墓守太郎

PG-12/R-12
※流血・グロテスク・若干いやらしい表現があります。苦手な方はご遠慮ください。
※作中に不健全な思考が含まれますが、作者にそのような思考・行為を称賛したり煽動したりする気は一切ありません。

太郎はクミコを離れることなど出来はしないのだ、永遠に。

 太郎鬼はクミコの太郎になった。おもちゃである。
 クミコは大変、物の扱いが荒い子であった。ある時クミコは太郎の腕を引き抜いて、地面に放った。
 腕はぼとりと、遠くへ落ちた。
「太郎ちゃん」
クミコは太朗に呼び掛ける。
「腕を取っておいで」
野良にでもやるように、顎で太郎の腕を示すとクミコは冷やかに太郎に命令した。
「わかった」
掠れたような震え声で返事をすると、太郎は小さく歩く。腕をちぎられた肩口から血が出ている。残った手で傷口を抑えるが、まるで意味がない。
 のろのろ歩いている太郎をクミコが怒鳴る。
「早くおし! この“でれ”がっ!!」
クミコに急かされ、太郎はちょっと足を速めた。腕を拾って、戻ってくる。クミコは、にっと笑った。クミコの笑い方は口角がとてもつり上がるものだ。
「よくできました、太郎ちゃん」
クミコは太郎の頬をつるりと撫で、撫でている方とは反対の首筋に口付けした。
 太郎はこくり、と頷いた。
 太郎鬼はクミコの太郎になった。牙は折られ、狂気は抜かれ、おもちゃになった。


 クミコという存在の前に、全ての獣は無力であった。クミコの前では全ての獣はただの“もふもふ”に成り下がるのである。
 そんなクミコは、何の前触れもなく太郎鬼の前に現れた。太郎鬼はクミコの名前を知らなかったけれど、知ってみればそれはもう、クミコはクミコ以外の何者でもないほどクミコという存在を確立していた。
 初めて会った時クミコは、何やらステキに赤かった。赤色は血で、血の出所はクミコの左手が引きずっているものだった。ライオン、の雄。ライオンの頭。クミコが引っ掴む鬣(たてがみ)をはじめとする頭部は全体的に赤く染まっていたが、かすかに残る本来の毛は青い。もともとは青い毛が美しかったであろうに、残念なこと。
 クミコは太郎鬼の前で立ち止まった。歩いていた太郎鬼も立ち止まった。対峙し、動きのない時間がほんのわずかにふたりの間に淀んだ。
 ふいに、クミコがライオンの頭部を放る。
 太郎鬼の方に飛んできた頭はしかし、太郎鬼の目の前で消えた。いつの間にか太郎鬼も赤く染まっている。足元には今しがた切り刻まれたばかりの肉塊がごろごろしている。つまり太郎鬼は目にも止まらぬ速さで、ライオンを切り刻んだのだ。
 刃物のような爪に付く血肉を、太郎鬼は舐めとって、顔をしかめる。
「不味い……獣臭い」
「あなただって、同じでしょう?」
ここにきて初めてクミコが声を出す。女の高い声は耳障る。太郎鬼はき、っとクミコを睨みつけた。
 クミコは笑みを濃くすると、なんでもないように太郎鬼の方へ歩を進めた。自信に満ちた足取り、ずんずん、ずんずん進んで、太郎鬼の前まで来た。太郎鬼は冷たい瞳でクミコを見ていたが、あまりにもクミコが近くに来たのでためらいなくその爪でクミコの細い肩を突き刺した。クミコの赤い血がにじむ。
 クミコは止まらなかった。痛みを顔に表すことなく、むしろ笑みは濃くなり、流れるように太郎鬼にさらに近づいた。
 そして太郎鬼に口付けした。
 びくり、と太郎鬼の体がふるえた。
 クミコの舌が太郎鬼の牙をざり、となぞる。クミコの舌はやけに冷たかった。太郎鬼の鋭い牙がクミコの舌を斬り裂く。太郎鬼の舌に広がる味はクミコの血。やっぱり出血に構わず、クミコは太郎鬼の口中を舌でまさぐる。太郎鬼は動けなかった。
 頭の中の真ん中が、じんとぼんやり霞むような。初めての感覚に酔い痴れそうになるのを、鬼の矜持で踏みとどまる。
 クミコは太郎鬼の上下左右の牙を己の舌で確かめた。そうして今度は、太郎鬼の牙を折りにかかった。クミコは太郎の牙を銜(くわ)え、えいと力を込めるのである。本来骨さえ砕く牙は、非力なクミコにいとも容易く折られていき、あっという間に四本は零になる。
 そこでようやくクミコは太郎鬼から口を離した。太郎鬼はぼんやり目を見開きクミコを見つめた。クミコの口の両端から、つつと血筋が流れている。口の中を太郎鬼の牙で切ったからだ。ごくんとクミコの喉が動き、口元の血筋も親指と人指し指で綺麗に取り、舐めた。一連の所作は流れるようであり、野性的であり、相反するように優雅でもあり、なにより官能的であった。
 クミコが口を開く。
「わたしの血、おいしい?」
甘たるい声であるのに、太郎鬼の背に寒気が走った。
 クミコの血。
 太郎鬼は恐れ慄いた。
 己の口の上に広がるこの血の味、これはクミコのものである。クミコという特別が太郎鬼の中に形成された瞬間だった。今までにも、血は腐らすほど呑んできた。けれどそれは、どれでも個としての血ではなかった。人の血、猫の血、熊の血、蛙の血……誰にも、どれにも、名というものを感じたことはなかった。
 そんな太郎鬼に突然降りかかったクミコの言葉である。クミコの血、クミコ。クミコ、クミコ、クミコ。人ではなく、クミコ。クミコの血は、美味かった。
 太郎鬼の体から自然と力が抜け、クミコを貫いていた腕からも力が抜け、長い爪のはえた腕はずるずるとクミコを傷つけながら、結局ぶらんと太郎鬼の体の脇にぶら下がった。
「良い子ね」
 血を流しているのに、不敵にふふんと、素敵にがつんと、クミコはのたまう。
「全ての獣は、わたしの前に跪くがいいわ」
逆らうなど、選択肢の中から消えていた。太郎鬼、だった太郎は地面に膝をついた。跪き、ただクミコの顔を見上げた。
「わたしのおもちゃになりなさい」
催眠のようにクミコの声、言葉、口調は太郎を支配する。太郎は自然に頷いた。
 クミコは満足そうな顔をしたが、ふとその小作りに不満げな影がさす。
「その爪、可愛くないわ。剥ぎなさい」
太郎は己の爪を見る。長い爪は鬼の爪。 催眠のようにクミコの声、言葉、口調は太郎を支配する。太郎は己の鬼の名残である爪を一枚一枚剥いでいった。
 痛くはなかった。だってクミコの言葉があるのだから。
 牙を折られ、爪を剥いで、太郎は人と同じ姿になった。太郎を最も太郎鬼に縛り付けていた鬼の矜持はクミコに抜かれた。
 太郎鬼は死んだ。
 ばっちり、すかっり、これにて、ようやく――太郎の完成である。


 太郎鬼がクミコの太郎になったのはひとえに、ただただクミコのことが好きだったからである。太郎はクミコのことが好きだった、大好きだった、敬愛していた、崇拝していた、溺愛していた、愛していた。
 太郎鬼を止めてしまうほどに。
 それでも世の中、想うほどに想われていないのは常である。
 クミコの方は愉快な程、太郎に対しては何の感情も持っていなかった。クミコは「クミコのおもちゃ」というポジションに対してそれなりの楽しみを抱いていたけれど、クミコのおもちゃである太郎のことなど、気にかけたことはなかった。
 クミコはとてもケチであった。無駄なものには一切何も、感情さえも向けなかった。
 だから太郎には感情を向けなかった。
 太郎はクミコのおもちゃだ。おもちゃは物だ。物は減る、消耗品だ。だから仮に太郎に感情をかけると、太郎を消耗したとき太朗にかけただけのクミコの感情が無駄になる。
 だから太郎には感情を向けなかった。
 でも太郎はそれでも構わなかった。太郎はクミコのおもちゃで、クミコはおもちゃとして太郎のことを楽しんでいたから。クミコの中に太郎という個がなくとも良いのだ。そもそも太郎鬼であることを止めた時点で太郎はもう何でもなく、何にでもなれるひどく矛盾した存在なのだから。
 太郎はクミコのことが大好きだった。
 しかし終わりなんて大概、突然訪れるものである。
 あるとき突然、クミコが消えた。
 太郎にはクミコの行動の意味がわからなかった。太郎がクミコのおもちゃになってから、ずっとクミコは太郎のもとを離れたことはなかった。太郎をいじめ、太郎を蹂躙し、太郎を罵り、ずっと太郎といたクミコ。太郎の世界の全てであるクミコは、どこへ行ってしまったのだろう。
 太郎はクミコを探した。片腕と片足になってしまった体では、歩くのさえ難儀したけれど、クミコという目標がある限り体は動く。
 転げるように歩き、ふと気づいた。探すという行為において初めに行うのは呼びかけではないだろうか。
「ク、ミ……コ」
久々に声を出してみた。いつだったかクミコにパキリと喉を潰された以来だ。蝦蟇を潰した時のような、ひどく美しくない声が出た。
 もう一度呼ぼうと、息を吸う。上手く吸えないのは胸の中身が破けているからか。空気が声となろうとした、その前に。
「汚い声でわたしの名を呼ばないで」
冷やかな声がした。
「ク、ミ、コ」
クミコの目は、地面に転がる薄汚い死体を見るようだった。
「わたしの名を呼ぶな、ごみ」
太郎は首をかしげた。ごみ? 太郎の名前は太郎だ。
 クミコが苛々とし、舌打ちをした。普段だったら太郎のことを丸太みたいな棒でぶん殴るくらいの苛立ち加減だ。ずっとクミコと一緒にいる太郎には、それくらいお見通し。
 けれど今のクミコは違った。
「もう、いらないわ、お前」
吐き捨てる、という形容がここまで似合う口調はないだろう。糞忌々しげに吐き捨ててから、クミコは後ろに呼びかける。打って変って、現金な程、猫撫で声。
「おいで、五郎ちゃん」
 クミコの呼びかけにより後ろから現れたのは、二股に分かれた尾を持つ美しい金狐だった。太郎はその狐を知っている。名の有る人食い狐、五郎狐だ。いや、クミコの後ろにいる今となっては、名の有る人食い狐、五郎狐“だった”というべきか。
 柔らかそうな金狐の頭を撫で、クミコは太郎を突き放す。氷というより金属のような目で、クミコは太郎を見た。金属と違うのは、いくら触れようとも熱が伝導しないとこ。
「今すぐ失せなさい」
クミコの言葉が太郎の頭の中を崩壊させる。

キタナイコエデワタシノナヲヨバナイデ。
ワタシノナヲヨブナ、ゴミ。
モウ、イラナイワ、オマエ。
オイデ、ゴロウチャン。
イマスグウセナサイ。

ああ、ああ、ああ――そういうことか。
 太郎はクミコに捨てられたのだ。いつか切り刻んだあのライオンと同じだ。
 クミコに捨てられたとわかった途端、太郎の中に浮かんできた言葉は頭を経ることなく口をついていた。
「面白いことを言うな、クミコ」
ああ、面白い、面白い。笑みが浮かぶ、笑みが浮かぶ。
「クミコ、クミコ」
嫌がるのを承知で、その名を呼んでやる。世界の全てだった人。
 案の定、クミコは嫌そうに顔をしかめ、新しいおもちゃに命じる。
「五郎ちゃん、残飯を喰ってきなさい、あなたの餌よ」
クミコの言葉を聞き終えると、狐が牙をむいて太郎に飛びかかってきた。
「お前は、折られなかったのか」
おかしい、おかしい、気づいてしまえば、おかしいだけだ。
 ぎゃうっと獣の死ぬ声がした。
 目を見張るクミコが目の前にいる。何に対して目を見張っているのだろう。四本の牙と十本の爪を持つ、鬼の体を取り戻した太郎に対してか。それとも太郎にいとも容易く殺された“五郎ちゃん”というおもちゃに対してか。太郎は爪で串刺しにした狐をクミコの方に放ってやった。女の子らしいか弱い悲鳴をあげて、クミコが一歩下がる。
「クミコらしくもない」
太郎の顔から笑みがこぼれる。
 気づいてしまえば、とても簡単な話だった。
 クミコという存在の前に、全ての獣は無力であった。けれど、太郎鬼は獣ではなかった。鬼だ。クミコはそこをわかっていなかったらしいけれど、牙を折り、爪を奪ったのは底ではわかっていたからかもしれない。そこまでしなければ、太郎鬼をおもちゃにできない、と。
 でも、それは、少しだけ間違え。そこまでしても、太郎を完全に支配することはできなかった。
 太郎はクミコの元へ歩いていく。クミコは恐怖に顔をひきつらせ、這いつくばり逃げようとする。女王様はいずこ、と言いたくなる。クミコが恐怖の中でどんなに頑張ったところで、鬼の力を取り戻した太郎に敵うわけがない。あっという間に追いつく。
「や、やめてっ」
 涙声が素敵だ。太郎鬼であった以前なら鬱陶しく感じていたであろう、この声、この顔、この存在、クミコ。太郎はクミコの両頬を両手で包みこんだ。クミコの皮フは冷たいものだと思っていたけれど、首筋はぬるいものだ。
 最愛だったクミコに、少しだけ嘘偽りの言葉を。

「クミコ、愛してる」

太郎はクミコの白い首筋に爪を立てた。

 そうして太郎は、クミコを殺した。クミコは目を見開いて死んだ。




 気づいてしまえば簡単だった。クミコが「クミコのおもちゃ」という存在で遊んでいたように、太郎も「太郎鬼を太郎にしてくれるクミコ」を愛していただけだった。
 太郎はずっと、人間になりたかった。
 どんなに生き物を殺そうと、どんなに血を浴びようと、心のどこかでは人になりたかったのだ。でも生き物を殺してしまうのも、血を浴びるのも、全ては鬼の性が問題であった。それを取っ払ってくれる誰かが欲しかった。
 今ならわかる。クミコに初めて会ったとき、いともたやすく牙を折られたのは、クミコを愛するという言葉の下に利用するためだった。太郎には確信がある。「太郎鬼を太郎にしてくれる」のはクミコしかいない。クミコはもういない。
 それでも、鬼には戻らない。
 気づいても、もう戻れはしないのだ。
 太郎はどうなるのだろう。太郎鬼でもなく、太郎を支えてくれるクミコもなく、太郎の存在はどうなっていくのだろう。その部分に関して、少しだけ不安があった。無くなりたくはない。
 どうしてクミコを殺したのだろうと、考え込む。ちょっと身じろぎすると、ぐにゃっと爪先に何かが当たった。クミコの抜け殻だった。
「こんなもの」
太郎は吐き捨て、蹴飛ばした。クミコの殻はされるがままに転がった。文句のひとつもない。こんなもの。
「人形じゃないか」
 ――人形。
 己で口にしたその言葉が、やけに太郎の脳髄に絡まる。人形を愛することに意味はないと思っている。でも、太郎は知っていないだろうか、人形を狂愛する女を。
「……クミコ」
太郎はクミコの抜け殻を見つめる。そうだ、クミコだ。クミコにとって全ての獣はおもちゃだった。おもちゃをかわいがることで、クミコはクミコという存在を確立してきた。それなら、今の太郎にも出来はしないか。クミコの抜け殻があれば、それで良い。
 太郎はクミコの抜け殻を拾い上げ、運ぶ。人の近づけない、獣も滅多に訪れない、ほとんど太郎にしか許されない場所。太郎が知る中で、星に最も近い高い場所。
 太郎は穴を掘り、そこにクミコを横たえた。クミコの顔を見る。目は見開き、顔は血まみれだった。これはよくない、クミコは綺麗でなければならない。人形は綺麗でなければならない。太郎はクミコの目を閉じてやった。沢で水を汲んできて、顔の血を拭ってやった。うん、綺麗だ。
 掘った土を埋め戻す。周りの土も足して、ドロマンジュウを作る。太郎はその上に座り、目をつぶる。口元には緩やかな笑みさえ浮かんだ。
 クミコをどうして殺したのか不思議だった。鬼の体と力を取り戻したから、はずみで殺してしまったのかと思ったけれど、違う。きっと太郎はクミコを人形にしたかった。こうなった今となっては、それ以外の正解はあり得ない。太郎はクミコに所有されるのではなく、クミコを所有したかった。
 だって、クミコは飽きるのが早いからすぐに太郎を破棄してしまう。でも大丈夫、太郎はそんなことしない。大切に、大切におもちゃ箱の中にしまっておく。そうすればずっと一緒。クミコは永遠に太郎を太郎に留めてくれる。
 星の降る夜、クミコとふたり、永遠に。
 鼻歌まじり、太郎は呟く。心の底から、ホントの言葉。
「クミコ、愛してる。ずっと、ずっと、愛してる」

クミコは太郎を離れることなど出来はしないのだ、永遠に。

   墓守太郎…おわり



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