暮れ間に沈む



日常微動

 十七歳、高二、夏。なんて不安定な時期だろう。
 入道雲と青空のコントラストを見つめながら、俺はため息をついた。教室から見える景色は、いつもと変わり映えしない。
「奏(かなで)さん、このよき日に何故ため息をついているんですか」
 後ろから声をかけられる。この声は、というか口調でわかる。イチだ。侘助無花果(わびすけ いちじく)。
「んだよ、イチ。まだ学校にいたのか」
振り向きながら言うと、イチが穏やかな笑顔を浮かべている。
「ええ、僕だって残っている気はなかったんですけどね。帰ろうと思ったら奏さんが教室でひとり、ため息をついていたので、何事かと思いまして」
 イチは隣のクラスの男子だ。一年の時同じクラスで、驚くくらい話とか性格とかが合う。まぁ有り体な言い方をすれば親友、になるのだと思う。
「なにか悩みごとですか? 相談してください。僕はこれでも奏さんのことを親友だと思っているんですから」
 笑顔、敬語、青臭いセリフ。イチを構成している要素はこの三つだ。ただし、俺の前限定。イチは他の人間の前では高校生らしい言葉づかい――たとえば一人称が俺――なのに何故か俺とふたりきりの時は敬語を使う。
 イチ曰く、
『こっちが素なんです。奏さんに気を許している証拠ですよ』
らしいのだが、最初はどうもしっくりこなかった。仲良くなり始めていきなり敬語に変わると、俺が何か怒らせたみたいだ。
「別に、なんでもねぇよ」
「なんでもない人はこのよき日にいつまでも教室に残っていませんよ。夏休みをエンジョイする計画を立てます」
 そう、今日は終業式だった。明日から夏休み。一月以上続く長いながい休みを思うと、自然とため息がこぼれた。
「夏休み、楽しみじゃないんですか? 知らなかったなぁ、奏さんがこんなに勉強熱心だったなんて」
不思議そうにイチが言う。別に勉強ができなくなるから休みたくないわけじゃない。というか勉強はしたくない。
「なんかさぁ、俺、すごく気持ち悪いんだ」
 机に突っ伏し、腕の中に顔をうずめる。目の前が真っ暗になる。当たり前だけど。
「保健室……より帰ればいいんじゃないですか。もう放課なわけですし」
「ちがう、身体的にじゃない」
「じゃあ、どういう意味で?」
 俺はとにかく今、気持ち悪い。精神的に。気持ち悪いという事実はあるのだけど、それを言葉にして伝えようとするとどうも、難しい。
「……なんか、すごく不安定だろ。今の俺らって」
イチが首をかしげる。まぁ、この言い方では、そうか。
 考える、が、うまくまとまらない。
「あー、えと。将来が不安?」
苦し紛れに言う。
「でも、奏さん、進学でしょう? 勉強だってできないわけでないし。何がそんなに心配なんですか」
「うーん、日常、が?」
「日常?」
 そうだ、日常だ。俺はがばっと起き上がる。俺はこの日常が気持ち悪いんだ。何気なく言ったこの言葉が、答え。
「俺の周りに日常ができているのが嫌なんだ、俺は。今この瞬間、世界は動いているのに俺は動いていないって言うのが。わかるか、イチ?」
「わかりません。奏さん、男子高校生としてはけっこう恥ずかしいこと言っていますよ」
俺だってイチ相手じゃなければこんなことは言わない。
 俺はそこそこ勉強ができるから必死に勉強をしない。大学に行くと決めたけど具体的に行きたい大学がないから勉強しない。学校へ行って友達と話して、イチと話して、放課になったら家に帰って……また翌朝。その繰り返しの中で動けない俺自身が気持ち悪くて、もどかしいんだ。きっと。
「ええと、要するに、動きがない毎日の中で、奏さんは退屈しているってわけですよね」
 そういう、ことか? よくわからないが、そうなのかも知れない。目の前に何もなくて暇だから将来に不安を覚えて暇をつぶしているのかもしれない。
「その悩みの解決方法、僕知っていますよ」
にこりと笑顔でイチは人差し指を立てた。
「なんだよ、それ」
 こういう時のイチはちょっと危ない。ロクなことを言わない。
「彼女ができれば、一発です」
……やっぱり。
「そんな簡単に彼女ができるか、ばか」
「合コンやりましょ、合コン。僕も彼女欲しいです」
「アテはあるのか?」
 嬉々とした表情のイチに聞く。こういう顔をしているときのイチは本当に分からない。つか、アテがあっても嫌だ。
「僕の姉なら紹介しますよ」
「断る」
「まぁ、姉さんはオジ様好きなので奏さんは最初から対象外ですけどね」
「なら、言うなよ」
 俺はまたため息をついた。ふと外を見ると、さっきまで近くにあった入道雲が遠くに流れていた。俺はさっきのまま教室にいるのに。
 十七歳、高二、夏。未来は輪郭だけできあがっていて、中身はぐちゃぐちゃ。輪郭を変えるほど勇気はなくて、中身を固めるための努力をする気にもなれない。
 なんて不安定な時期だろう。
「奏さんって、妙なところで繊細ですよね。普通の高二は夏休み前に将来を憂いたりしませんよ。目の前に広がる夏休みをエンジョイします」
俺だってエンジョイしたい。したいけど、日常が俺を引き留める気がする。変わり映えのない毎日が一か月以上続くと思うと、もどかしさにつぶされてしまいそうになる。
「仕方ないですねぇ」
 俺の真似、をしたわけではないだろうが、イチもため息をついた。でもその表情はどこか楽しげだ。怪しく思ってイチを見つめていると、イチはポケットから何かを取り出す。
「眼鏡?」
イチが取り出し俺の前に差し出したのは、眼鏡だった。黒ブチの、レンズがけっこう厚めなやつ。
「なんだよ、その眼鏡。お前、眼鏡なんてかけてないだろう」
 イチはふふふ、と笑う。
「これ、魔法の眼鏡です」
「まほう?」
まさか高校生にもなってそんなことを言われるとは思わなかった。
「あ、信じてませんね、奏さん」
不信の念が顔に出たらしい。イチがいかにも心外そうに言った。信じてもらえる方がありえないだろう、普通。
「この眼鏡をかけると、奏さんの停滞した日常が動き出す! ……かもしれないです」
「かも、かよ」
「とにかく、これ。かけてみてください」
 そう言うとイチは強引に眼鏡を俺に着けさせようとする。目に入りそうで怖いので、イチから眼鏡を奪い、自分でかける。
「う、わ。なんだこれ。度、強すぎ」
冗談じゃなく度が強い。教室の机も椅子も黒板も、窓の外の青空もすべてぼやけてよく見えない。一点を見ようとすると、頭の内側がガンガン痛くなりそうだ。
「これ、ほんと。誰の眼鏡だよ」
 聞くが、イチの返事はない。
「イチ?」
「待っててくださいね」
 少し遠くでイチの声がする。待っている?
「すぐに来ますから。帰っちゃだめですよ」
そう言ったきり、イチはいなくなった。
「ったく、何だ、あいつ」
 眼鏡を外し、俺はまたため息をついた。眼鏡を外せばまた、いつも通りの景色、日常。眼鏡のレンズをのぞいてみる。眼鏡のレンズ、楕円の形だけ世界がぼやける。
 確かに、眼鏡をかけるとちょっとの間だけ違う世界に行けるみたいだ。これはけっこう、面白い。
 気がつけば気分はかなり上昇気味。イチなりに俺を元気づけてくれたのかもしれない。魔法の眼鏡か、まんざらでもない。もう一度かけて、あやふやに酔ったような世界を楽しむ。案外、中毒性があるもんだ。
 ガタッと入口の方で音がした。
「イチか?」
振り向く。……違った。女子生徒だ。カッと体が熱くなる。ぼやけて誰だかわからないけど、この教室に来たってことは同じクラスの奴か? つか、この眼鏡、度が強過ぎだろ。
 女子生徒はこっちに近づいてくる。
「すみません、誰ですか?」
ちょっと高めの女子生徒の声。綺麗な声だ、と思った。苛立っている心を優しく撫でていく春の風みたいだ。
 俺が返事に詰まっている間に彼女はどんどん俺の方に寄ってくる。どんどん、どんどん……って、
「おい!」
近すぎだ。俺の顔の十センチ前に、女子生徒の顔がある。
 俺が声を出すと、ぴたりと女子生徒の動きが止まる。どきどきと心臓が鳴り、汗が噴き出す。女子生徒が今度は、腕をのばしてくる。ぼやけて見える細くて白い指先が、俺がかけている眼鏡をつかむ。さらりとした彼女の肌が、俺の額に触れた。
「これ、わたしの眼鏡じゃないですか」
「え」
 頬の上の方が、ほっぽりと熱を帯びる。
 少しぎこちない手つきで彼女は、俺から眼鏡を外した。急に視界がクリアになる。目の前にいる女子生徒は……誰だっけ? 見覚えはある。大きな瞳と白い肌、薄い桃色のくちびる。肩のあたりで切りそろえられた髪は艶やかに夏の風に揺れる。見覚えはあるのだ。
 見覚えはるけど俺は、こんなに綺麗な女子生徒を見たことがない。
 頬がかぁあっと熱くなる。心臓がバクバクしている。なんだ、この中学生みたいな反応は。
 そんな俺の心情を露ほども知らず、彼女は俺が今までかけていた眼鏡をかけた。
「あ」
思わず、言ってしまった。
「なんです?」
女子生徒、というか雛村は不思議そうに首をかしげた。
 雛村(ひなむら かえで)楓は間違いなく俺と同じクラスの女子だ。なのにどうしてわからなかったかというと。
「雛村、眼鏡していないと雰囲気変わるな。だいぶ」
「そうですか」
雛村は眼鏡を上下にいじくりながら答えた。
 眼鏡をかけるとどういうわけか、雛村の瞳は小さく見えた。それと、少しだけ眉間にしわが寄る。いつも教室で見る雛村だ。ちなみにいつもはきれいにみつ編みにされている髪が解かれていることも、印象を変えているのだろう。
 俺が勝手にイメージする昭和の女学生――これが、俺が雛村に持っていた印象だった。でも今の雛村は、違う。
「そういえば、どうしてわたしの眼鏡を?」
雛村はちょっと首をかしげて、怪訝な顔をした。
 そりゃそうだ。今までほとんど話したこともない俺が自分の眼鏡をかけていたのだから、気持ち悪いだろう。つか、俺もどうしてだかよくわからない。
「あの。ごめん、雛村の眼鏡だって知らなくて。イチが、持ってきて、それで」
うつむいてもじもじと言い訳をする。しかもイチの名前を出してしまったことにちょっぴりの罪悪感を覚える。かっこ悪い。が、あとでイチのことは殴ってやる。
 しかし雛村はなぜか「なるほど」と言い、面白そうに笑った。俺はわけもわからず、どきりとした。思わず顔に出そうになる緩んだ表情を隠すため、言葉を発する。
「なにが『なるほど』なんだ」
「イチって、侘助くんのことですよね」
「ああ、そうだよ」
雛村はうんうん頷き、ひとり得心してしまったようだ。俺にも教えてくれ。
 数秒後、俺の視線に気づき、雛村が説明してくれた。
「この眼鏡、ユリに貸したんですよ」
「ユリ? ……山茶花のことか」
「はい」
イチと同じクラスに、山茶花白百合(さざんか しらゆり)という女子がいて「ユリ」と呼ばれているのは知っていた。和服が似合いそうな綺麗な生徒だ。雛村の話しぶりからするに、親しい間柄なのだろう。そういえば、雰囲気がさっきの雛村と似通っている。
 だが、肝心のことがわからない。
「で、どうして『なるほど』なんだ」
 雛村がこれ以上話す気配がないので聞いてみた。なぜ山茶花に貸した眼鏡がイチに渡り、俺のところにあるのか? さっぱりわからない。雛村がかくん、と首をかしげた。黒い髪がさらりと流れる。ああ、ダメだ。また俺の心はぐるん、と揺れる。 「知らないんですか」
何を?
「ユリと侘助くん、恋人同士」
「はっ!? 嘘だろ」
大声で叫んでしまった。雛村は目をぱちくりさせる。やばい。
 それにしても。
「それ、本当か」
呼吸を落ち着かせ、もう一度聞く。雛村はこくりと首を縦に振った。
「そうですよ、知らなかったんですね」
楽しそうにくすくす笑っている。
「イチに、彼女? 山茶花? まじかよ」
 俺はがっくりと机に突っ伏し、髪をがりがりと掻いた。
 さっきの位置との会話がよみがえる。何が『僕も彼女が欲しいです』だ。俺に何も言わないでひとりだけ山茶花と夏休みをエンジョイする計画を立てていたんだな、あの野郎。イチを殴る、これは決定だ。
 俺が頭の中でぐずぐずと考えていると、雛村が俺を可笑しそうに見ているのに気づいた。
「藤坂くんって、おもしろいですね。いつもむっつりしているイメージしかありませんでしたよ」
いよいよ俺の体は燃えるように熱くなり、まともに雛村の姿を見ることができなくなった。このまま黙っているのはまずい。大変気まずい。そう思って、先の言葉も考えずに口を開いた。
「そんなこと言ったら、雛村だって。俺は雛村がこんなに、」
綺麗だって知らなかった――。口にしかけた文末をなんとか飲み込んだ。こんなこと、言えるわけがない。雛村は不思議そうに首をかしげる。
「こんなに、なんですか」
「なんでもない」
俺はそっぽを向いた。かっこ悪いな、俺。
 教室の開いた窓から、夏のさわやかな風が吹き込み、俺と雛村の髪を揺らす。水を打ったように静まり返る一瞬。
 その一瞬先に、雛森が口を開いた。穏やかな微笑とともに。
「藤坂くんが元気になって、良かったです」
「え」
なんで雛村は俺が元気ないことを知っているんだ。
「ユリが、『元気のない子を元気づけたいから、眼鏡貸して』って言ったんです」
それで眼鏡を貸してしまう雛村はなかなかお人好しだと思う。
「あー、そうか。うん。ありがとう、雛村」
ごにょごにょとお礼を言うと、雛村は嬉しそうに笑う。見ているこっちまで思わず笑いたくなるような、優しい笑顔。
「どうしてわたしの眼鏡で元気が出るのかわかりませんけど、また元気がなくなったら、貸してあげますね」
 そう言って、教室の出入り口に歩いていく雛村。
 雛村の眼鏡を借りてあやふやな世界に酔うよりも、雛村とこうして話している方がよほど元気が出るんだ――なんて、言えるはずもなく……その後ろ姿を見おくる。
 ひらりとスカートをはためかせ、雛村がちょっと振り返った。
「それでは藤坂くん、良い夏休みを」
すぐに見えなくなる雛村の姿。残像が俺の心を灼く。どくりと心臓が鳴り、なんとも言い表しにくい気持ちがこみ上げる。叫び出したいような、頭を抱えてしまいたいような。この気持ちは、なんだ?
 ただ、ひとつだけ言えることがある。
 退屈と倦怠にまみれた日常が、音を立てることもなく微かに、動き始めた――――。

   日常微動…おわり



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