暮れ間に沈む



曼珠沙華

 マンジュシャゲ――。それは梵語で【赤い花】を意味する。その花は、いつでも人のそばにある。土手や路地裏、田んぼの畦道……。
 そして、マンジュシャゲは墓場へと通じている。


   私は村の役場で働いている。村役場へ行くのに私はいつも、田んぼの真ん中を通る畦道をちょっと太くしたような道を使っていた。そこが近道なのだ。私の家と役場のちょうど真ん中あたりに大きな栗の木がある。
 そこに、その少女はいた。
 初めて少女にあったのは春先、風に桜の香りと花びらが漂っていた。その日、私はかなり余裕をもって家を出、何も植えられていない田の向こうに見える桜を愛でようなどと、洒落込んでいた。栗の木が遠くに見えたとき、私は栗の木の下に人がいるのを見た。いや、正確に言うのなら私は人を見たのでない。赤い花を見たのだ。近づくにつれてそれが髪に赤い花を挿した少女だということに気づいた。
 ぼやけた春の色彩の中に、少女の挿した花の赤さは異常に目にしみた。
 それから毎日、行きも帰りも少女は栗の木の下にいた。何をしているわけじゃない。ただ座ってぼんやりと田んぼを眺めているだけだ。私は最初、何も思わなかったが、七日も経つとさすがに心配にも不気味にも思えてくる。
「おい、おめぇ。こげなところで、何してるだ?」
八日目の朝、少女に声をかけてみた。少女は薄く笑って、こう答えた。
「あたしは、父(とお)さか、母(かあ)さが迎えにくるまでここで待ってんといけんなや」
「………たぶん、おめぇの父(とお)さと母(かあ)さは、迎えにこん。おめぇは、捨てられただろぅて」
少女には酷だろうと思ったが私は思った通りのことを言った。一日、二日ならともかく今日で八日目だ。着ているものを見れば少女は村の子供の着ているそれとは明らかに違う。市内の方では食べるのも困っている、と役場の人間がぼやいていた。この少女は捨てられたのだ。きっと。十七年前の、私のように……。
「うん、分かってるよ。父(とお)さと母(かあ)さはあたしのことを、置いて行ってしまったんよ」
 私の言葉に少女はこう答えた。別にそれでもいいというように、少女は言って、笑ったのだ。
「おめぇ、行くとこはあるだか?」
「だぁから、言ぅとるでしょう。あたしは、迎えが来るまで、ここにいるんよ」
私は少女の意思を知り、少女のことを放っておくことにした。私は無理にでもここでこの少女を助けるほど、善人ではない。ここで私がどうにかしなくても、いざとなったら他の村人が助けるだろう。
 それにしても、この少女を見たという話を聞かないのはどういうことだろうか。お節介を固めて貧しくしたような村人たちが、捨て子の少女を八日間も放っておくともいうのも変な感じがした。
 次の日、少女は栗の木の下で倒れていた。私は役場に行く途中だったが、さすがにここで見殺しにするのはいけないだろう。少女の首に手を当ててみる。微かな脈が確認できた。私は役場に走った。村にいる医者の山楽(さんらく)先生は市内から来てもらっていて、役場の宿直室に泊まっている。
 十数分後、山楽先生を連れて栗の木のもとへ行ってみると、そこに少女は、いなかった……。
 二人であたりを探したが、少女はいなかった。納得しないまま村役場に帰った後、私は山楽先生に診てもらうはめになった。後から聞くと、私以外の誰も、その少女を見た者はいなかった。私は狐か狸にでも化かされたのだろうか……。



 秋。稲も刈り終わり、今、田んぼには何も植えられていない。私は今日も田んぼの中の道を通り、役場と家とを行き来している。
 薄肌寒い風が吹く中、私は帰りを急いでいた。少し前、私に結婚の話があり、そのことの取り決めを今日、いろいろと話し合わなければいけないのだ。
 役場から家へ続く道を足早に行き、栗の木が見えたとき私の足は自然に止まった。
 私の目にあの少女が入った――。春に見た、あの少女だ。
 しかし、それは違った。栗の木の下には真っ赤な、冴え冴えと赤い花が一本、ひっそりと咲いていた。その花は、少女が頭に挿していたものと同じだった。私は吸い込まれるようにその花に見入った……。暗く冴えざえと赤い花はまるで、艶然と微笑む淫靡な女のようだ。
 時が経つのも忘れるほど、いや、時という概念を忘れさせるほどその花は美しかった。
 どれ程、時間が経ったか分からない。しかし、辺りの闇は最後の記憶より大分濃くなっていた。誰かが私の肩を叩き、私を現実に引き戻した。見ると、それは私の妻になる女だった。私はそんなことを半ば忘れて聞いた。
「この花、なんちゅうか知っとるか?」
女は訝しげな顔をしたが、すぐに答えた。
「こん花は、彼岸花ゆいますのよ。確か」
 ――彼岸花――私は目をつぶり、暗闇の中で想像する。血のように赤いこの花を。あの少女が私に見せることのなかった、はじけるような、笑顔を……。



 マンジュシャゲ――。この花は、気温がある一定に達すると一斉に開花する。この花は別名、ヒガンバナと呼ばれる。
 マンジュシャゲ――。それは梵語で【赤い花】を意味する。その花は、いつでも人のそばにある。土手や路地裏、田んぼの畦道……。
 そして、マンジュシャゲは墓場へと通じている。
 赤い、赤いこの花の花言葉は――悲しい思い出。

 この花は、墓場へと続く……。

   曼珠沙華…おわり



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