暮れ間に沈む



ユキウタ

※流血・グロテスクな表現があります。苦手な方はご遠慮ください。

 ある日の朝のことでした
 雪のつもった朝でした
 ひとりの下男が 殺された
 ころされた
 したたる赤は 瑪瑙(めのう)のような
 真っ赤な 真っ赤な 血の流れ
 下男のまわりの雪んこは
 きれいな紅になりました

 これは、わたしの家に伝わる歌だ。別に覚えたいわけではないが覚えてしまった。
 わたしの家はその集落では結構な名家らしいが、わたしから言わせれば山奥にあるただ古くてデカイだけの家だ。今どき集落全体が携帯の圏外だなんて、あり得ない。
 この歌がうたわれるのは大晦日の晩。除夜の鐘が鳴り始めるのと同時に歌い始め、一〇八回目の鐘が鳴り終わるのと同時に歌うのを止める。
 新しい一年を迎える前の日に歌う歌として、この歌詞はどうなのだろう。はっきり言って縁起が悪すぎる。
 小さい頃、祖母がわたしに言ったことを覚えている。

『除夜の鐘がその年の煩悩を落とすものなら、この歌はこの家の厄を落とすものなんだよ』

祖母は笑いながらこう言った。でも、本当は笑っていなかったと思う。口だけが笑顔の形で、目は鋭かった。普段柔和な顔をしている祖母の、そんな顔を見てしまったから今でも覚えているのかもしれない。
 たしか、わたしは聞いた。「どうして厄がたまるの」と。祖母は答えず、同じ笑みで、

『一年かけて、ゆっくりと、確実にたまる厄なんだよ』

と言った。




 昔の話だ。今となっては誰も知らない、嘘みたいなその歴史。
 山奥の、ある集落に原中家という名家があった。
 原中の家にはミエという娘がいた。光る珠が人の形をなしたらこうなるだろう、というほど美しい容姿をしていたそうだ。
 しかし実際、集落の人間にミエを見た者はいない。ミエの両親はミエが人前に出るのを極端に嫌った。ミエには、不思議で恐ろしい力があったからだ。
 原中の家にはもともと六人の使用人がいたのだが、ミエが三つのときに半分に減らされ、今いる三人もミエの姿を見ることはなかった。
 ミエは本当にいるのか。集落の者は口には出さないがみんな、そう思っていた。でもミエはいたのだ、本当に。
 ミエが十八の大晦日の日だった……というとあまりにも出来過ぎた話だろうか。
 家の者が寝静まった夜。原中の家に住み込んでいた下男が無理やり、ミエに手を出してしまった。
 下男はミエとさして歳が違わない。少し前まで働いていた老爺の遠戚で、まだ働き始めてから日が浅かった。
 大晦日の晩、たたたまちらりと両親といるミエの姿を見てしまったのが下男の不幸であり、ミエの悲劇の始まりでもあった。
 幻と謳われる娘が想像以上に美しく、己の前にいるのだ。下男は野性と愛欲を抑えることができなかった。
 ミエは、されるがままだった。轡をされ、声を出すこともできず辱めに堪えるミエの瞳はしかし、かっと見開かれ、下男を睨みつけていた。
 事が終ったあと、ふと現実に戻ってきた下男は、己を睨みつけるあられもない姿のミエを前に震える。
 ミエははだけた白い胸元を隠すこともせず、ゆっくりとした所作で轡を解く。声が自由になってもミエ叫ぶでもなく、じっと下男を見つめている。ミエの目に中てられたのか、下男は思うように動けない。
 しんしんと、沁みいるような静寂。厭な時間が流れ、嫌な汗が下男の喉元を伝う。
「死んぢゃえ」
ゆらりと下男を指差し、ミエは幼子のような口調で言った。ひっ、と下男の喉が鳴る。
 ミエは、もう一度。
「お前、死んぢゃえ……」
ミエの瞳は真っすぐに下男を射止めている。
 しかし、ふっとその焦点がぶれた。
「うっ」
ばたりと、ミエは倒れた。それきり、ぴくりとも動かない。下男の頭に最悪の想像が浮かぶ。まさか、自分が。
 いよいよ下男は気がおかしくなりそうだった。
「う、わぁあ。あぁ」
蚊の鳴くよりか細い声で悲鳴を上げると、這いつくばるようにして障子をあけ、ミエの部屋を出ようとする。
 だが下男の動きは障子を開けた途端、止まった。
 雪だ。
 さっさっさ、ふっふっふと静かな音を立てながら雪が降っていた。原中家の広い庭は一面、白銀にきらめいている。そのあまりの綺麗さに下男の動きが止まった。
 次の瞬間、だ。かぁっと首にものすごい力を感じた。
 そして、その次の瞬間には目の前が真っ赤になり、次の瞬間には真っ白。
 最後、下男の目の前は真っ黒になった。刹那のうちの出来事だった。


 次の日、下男は庭で死んでいた。なんとも人間離れした殺され方だった。そう、殺されていたのだ。頭と体が離れていたのだから、殺されたのだろう。自分で死んだのだとしたら、下男は随分な男になってしまう。
 体は地面に仰向けに寝ていて、腹のあたりがえぐられたようにつぶれ内臓物が散乱していた。そして顔の方は反対に、傷一つなくやけに奇麗だった。ただ一線、口の端から紅色の血が流れているだけだ。顔は、百舌のはや贄のように葉の落ちた木に突き刺さっていた。
 ミエは部屋の前の縁側に座り、目の前に広がる惨状を楽しそうに見ていた。鼻歌を、歌いながら。
 年の初めの朝だった。雪の積もった朝だった。下男が一人死に、瑪瑙のように赤い血が純白の雪を染め上げていた。
 ミエの不思議で、恐ろしい力は具現の力。思いを形にする力。思うだけでいかようにも世界の在りようを変えることができる、神の如き力。ひと一人、殺すのもたやすい。




 わたしは今、実家の前にいる。
『原中』
相変わらず表札は雨の染みで汚れていて、読みにくい。
 今日は十二月三十一日だ。今年、最後の日。そしてつまり、我が家限定であの奇妙な行事がある日でもある。
 高校進学とともに一人暮らしを始めて四年目になる。今年は帰ってくる気がなかったのだ、本当は。あの変な歌を歌いたくないというのもあるし、彼氏ができたのもある。
 この集落はどこにいても携帯がつながらない。一度帰れば少なくとも三日は日常から隔離される。彼と三日も連絡が取れないなんて、嫌だった。だからわたしは、帰ってくる気なんてなかったのだ。
 それなのにわたしは、帰ってきてしまった。ふう、とため息をついて家の中に入る。
「ただいまー」
間延びした声で言うと、祖母が出てきた。
「あらぁー、チトセ。おかえり。遅くて、ばあちゃん、心配したよ」
にこにこと祖母は言った。うれしそうだ。わたしは祖母に苦笑を返した。
 祖母がわたしを今日、ここに呼んだ張本人だ。一週間ほど前、わたしが今年は家に帰らないことを母に連絡すると、祖母は折り返し電話をかけてきて言った。『帰って来い』と。
 あの祖母が人に命令調で物を言うということに驚いた。それでも渋るわたしに祖母はしつこく帰って来いと言った。そうして結局、わたしは祖母の気迫に負け、ここにいる。
 帰ったら文句の一つでも言おうと思っていたが、祖母の優しい笑顔を見ているとどうでもよくなってしまう。まぁ、実家が嫌いなわけではない。あの変な行事がなければ、とは思うが。
 夜もだいぶ更けた頃。ごぉんと一度、鐘が鳴った。
「さぁ、はじめよう」
父が言った。父、母、祖母、兄、姉、わたし、そして飼い猫まで連れて来て円になった。
 祖母はすでに目をつむり、両手を合わせてあの歌を歌っている。まるで念仏でも唱えているみたいだ。祖母に続くように父が、そして母、兄、姉……わたしも歌い始める。
 流石に猫は歌わないが、にゃあと一声鳴いた。


 ある日の朝のことでした
 雪のつもった朝でした
 ひとりの下男が 殺された
 ころされた
 したたる赤は 瑪瑙のような
 真っ赤な 真っ赤な 血の流れ
 下男のまわりの雪んこは
 きれいな紅になりました

 しずしずと歌い続ける。ちらりと外を見ると、白い雪が降り始めていた。

   ユキウタ…おわり



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