暮れ間に沈む



遠くへ落ちるあの子の希望

 昔むかし、世界がまだ彼の心の中にあった頃のお話です。世界は彼の御心のままに動いていたのです。彼が笑えば日照りが続き、彼が泣けば世界に雨が降るのです。
 彼の気性はまるで幼子のそれのように大変厳しく、人々は困っていました。しかし、誰も彼に逆らうことはできなかったのです。
 そんなある時、世界の中で唯一、初めて彼に逆らう人間がいました。
「世界が彼のものだなんて、間違っている!」
その人はそう言って、立ち上がったのです。

『彼とはなんだ?
 彼が彼の為にこの世界を己の心中に留めておくのならば彼は、吾らと変わらない民ではないか!
 彼とは本来、世界に干渉せず、民を見守るのが役目なはず。
 彼の気の向くままに世界が動き、彼がために吾ら民が泣かされるというのなら、彼とはなんだっ!!』

 その人は若いながらもみんなからたいへん尊敬されている人でありまして、その人の話には民はよく耳を傾けるのでした。
 しかしさすがに、今回はそう言うわけにはいきません。民たちは顔を真っ青にしました。
 彼の中に在るこの世界において、その人の発言はあまりにも毒だったのです。


 当然のように、その人には彼から罰が下りました。
 彼はその人の元に大きな雷を落としたのです。その人はあっという間もなく、真っ黒に焦げ死んでしまいました。
 彼のその人に対する罰は、これだけでは終わりません。
 彼はたまたま世界の外から流れてきた星を手に取りました。そしてその星の中に、遺骸から抜け出したその人の魂を閉じ込めました。

 ――――
お前はたいへん愚かだ。お前のような奴はこの世界から追い出してやろう。お前を入れたその星は、この世界の外に流れていくのだ。このままお前を、外へ追い出してやろう。
 ――――

彼はこう言いました。このとき、民は初めて彼の言葉を聞いたのです。
 彼は流れ星を離しました。星は流れていき、すぐに見えなくなってしまいました。
 民はその人の死と魂の追放を嘆き、悲しみました。
 民々の心が涙で溢れかえりそうになっているのを嘲笑うかのように、彼は毎日毎日笑っていました。つまり世界は、日照りが続くのです。

 その人の死から、ひと月ほど経った頃でしょうか。世界を流れる大きな川の水もそろそろ干上がってきました。
 贄の祭壇にひとりの少女の姿がありました。贄の祭壇とは年に数回、またはひどい飢饉や日照りの時などに民が、彼に祈りをささげる場所です。文字通り、生け贄を捧げることもあります。
 少女は真っ黒でくりくりした瞳をもち、褐色の肌に真っ白な服がとても映えます。甲高い声で、少女は言いました。
「ちょっと、すみませんー。誰かいませんかぁ」
祭壇からは何の返事もありません。
 それでも少女は、もう一度呼びかけました。
「居留守はいけないってお兄ちゃんが言っていましたよぅー。出てきてくださーい。聞きたいことがあるのですー」
 ずずず、と贄の祭壇を守るように置かれた石像が動きました。しかしちょこっと動いただけで、また辺りはしんとしてしまいました。女の子は少し不満そうに口をとがらせます。
「むぅー。ダンマリですかぁ? わたしは、あなたが殺したお兄ちゃんがどうなったのか知りたいだけなのですよー」
 無邪気な少女の声が、贄の祭壇の周りに反響し吸い込まれていきます。
――お前は、あの男の妹か?
石像がぱくぱくと口を動かし、話しました。声はひどく重苦しいのに、口調はそこいらの悪がきのようです。
 少女は彼の声を聞き、ぱぁっと明るい表情になりました。
「そうですよー。それにしても、あなたはわたしがお兄ちゃんの妹だということを知らないのですねぇ。不思議です、不思議です。あなたは何でも知っているのだと思っていました」
変わらぬ間のびした話し方で言い、ほほえむのです。
――兄が死んで悲しくないのか?
 彼がどこかおかしそうな口調で聞きます。するとすぐに少女は、
「わたしには心がないのだそうですよー」
とまるで他人事のように言いました。
「お兄ちゃんはそのことでたいへん心を痛めていました。よくわからないけど、『ごめんねー』って言うと、わたしの頭を撫でてくれました」
少女は本当に、にこにことしながらそんな話をするのです。
「お兄ちゃんは、どうなったのですかー? 教えてください」
 しばらく彼が黙っていると少女が聞きました。
――星となり世界から消えた。
「お兄ちゃんの流れ星は、落ちましたかー?」
――あぁ、落ちたとも、落ちたとも。この世界から遠いところへ。
「そうですかぁ。どうもー」
少女は満足そうにうなずくと踵を返し、贄の祭壇から遠ざかっていきます。
 その後ろ姿に、彼は声をかけました。
――民は日照りで大変だろう?
少女はふり返り、「はい」と元気よく返事をします。
――お前が生け贄になれば、雨を降らしてやるぞ。
「そんなことができるのですかぁ? すごいですね」
 本当にうれしそうに笑い、少女は頭を下げます。
「でも、エンリョしておきます。さようなら」
少女はまた歩き始めます。
――兄と違い薄情だな、心のない娘よ。
 嘲りの言葉を言われ少女は、たったった、と祭壇の前まで走り戻ってきました。そして、ちょっと困ったように顔をしかめます。
「わたしがここでイケニエにならなくても、もうすぐ雨がふりますわー。お兄ちゃんが降らせてくれます、きっとー」
――どういうことだ?
 少女はまた笑いを取り戻します。
「お兄ちゃんが昔、言いました。流れ星はみんなのキボウなのだそうです。わたしは聞きました。『落ちた星はどうなるの、希望ではなくなってしまうの』と。するとお兄ちゃんは言いました。
 落ちた星はみんなのキボウを叶えるために頑張るメシアなのだそうです。つまりお兄ちゃんの星は落ちたので、お兄ちゃんはメシアですね、うん」
 ひとり納得し、少女は走り去っていきます。彼は大笑いしました。かぁっと日差しが強くなります。彼は笑うのをやめません。

「お兄ちゃんは、あなたの心を壊しに来るわ」

 少し離れたところで、少女が言いました。少女の口調は先ほどまでと同じように、楽しそうです。
 少女の言葉はもちろん彼の耳にも届いていましたが、今の彼はひどく愉快な心持だったので赦してやりました。
 少女の、鈴を転がしたように美しい笑い声を聞きながら、彼は笑い続けたのでした。


   昔むかし、世界がまだ彼の心の中にあった頃のお話。世界が彼の心の中から解き放たれる、三日前のできごと。


「お兄ちゃんは、あなたの心を壊しに来るわ」

   遠くへ落ちるあの子の希望…おわり



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