2話 こぼれ話



会いたい

2話の最後、和泉宿出たあと以降……くらいの話だと思います。
・登場人物は1話に出てきた夕凪さんとセン(千雨)さんです。


 思い切り抱きしめられたことがある。いつのことだったろうか。
 あたたかくて、やわらかな腕と胸は女の人だった。とにかく、その腕の中は落ち着いた。覚えていないけれど、きっととても怖かったのだ。それが、その人に抱きしめられると安心できた。
 あれほどの安らぎを、今のセンは知らない。
 今となっては、いつも心のどこかが寒い。
「千雨、どうしたの」
 穏やかな声がして、目が覚めた。
「ゆう、なぎ……?」
 木陰で眠っていたらしい。やわらかく丸みをお簿た陽射しが木々の隙間から降り注いでいる。どうしてここに夕凪がいるのだろう。そもそもここはどこだ。なにもわからないし、考えたくなかった。
 ただ、寒い。
「千雨、泣いてるの?」
 鼻先に夕凪の匂いがかすめる。夕凪の手がセンの目じりを拭った。
 指先の熱さに驚いた。火傷するほど、夕凪の指先が熱いと思った。熱があるのではないかと不安になる。夕凪の声が暗くなった。
「なんでこんなに、冷たいの」
冷たいのは、自分なのか。そういえば、ずっと寒かった。
 夕凪の腕が伸び、センを抱き起してくれた。そのままぎゅっと、抱きしめられる。熱の塊みたいな夕凪の体がセンを包む。やわらかく、熱い体。あのときのようなのに、違う。夕凪がいても心の奥の方は、寒いままだ。
 もう自分にはどこにも安らかな場所がないのだと気付いて、どうしようもなかった。泣く気も起らない。
 夕凪に抱かれ、体の芯までは届かない熱を感じながら空を見上げていた。やわらかな陽射の向こうの空は淡く、薄い雲が流れていた。耳元では何度も夕凪がセンの名前を呼んでいる。返事をしなければという思いを上回って億劫。ぬくもりと同じように、声はどこか遠く感じるのだ。
 このまま薄寒い中を歩き続けていくないなら、眠ってしまおう。考えなくなってしまえばいい。クルイのセンも、狂わした姉も、父のことも、考えないのは楽かもしれない。
 目をつぶった。まっくら。夕凪の声は遠くなっていく。どんどん小さく、それでも呼んでいる。
 でも。いいよ、もう、いい、夕凪のことだって知らない。
「千雨、いや、いやだよ」
 途切れる寸前、センはわずかな震えを感じた。震えているのは自分ではない。自分ではないとしたら――はっとして目を開けた。なんだか、やっと目を開けたような感じがした。
「夕凪」
夕凪は返事をしない。センを抱きしめたまま肩を震わせていた。
「夕凪、夕凪」
センは夕凪の肩を掴み、顔を無理やりのぞき込んだ。
 泣いている。瞳に涙の膜、こらえきれずこぼれていく。声はなく、それでも大泣きしていた。そうだ、夕凪はこういう娘(こ)だった。
 泣かないで、声に出したつもりだが夕凪には届かなかった。届かなくちゃ意味がない。泣かないで、泣かないで。なぜこんなに泣き止んで欲しいのか、自分でもよくわからない。
 わからないまま、センは夕凪の体を抱き締めていた。頭まで抱き込んで、自分の胸にうずめた。
「泣かないで、お願いだから」
耳元で懇願した。
 夕凪の熱を近くに感じた。さきまでとは違う。それはどんどん近づいてきて芯まで届いた、気がした。
「いたいよ、セン」
 そう言われても、抱きしめる手に力を込めるのを止められない。抱いているのはセンだけれど、夕凪に縋っているようだった。
「ごめんね、夕凪」
もう、夕凪なしでは生きていけないかもしれない。
 この気持ちは、なんというのか。考え始めたところで急に体が重くなった。今度はあらがう暇もなく、呑みこまれてしまった。


「ん……」
 目が覚めた。すべて夢だったらしい。昨夜は森の中で眠ったのだった。大きな木にもたれ、胸に抱いているのはもちろん夕凪ではなく刀だった。
 弱い自分が恥ずかしくて、苦笑いが浮かぶ。動かした目じりから涙が流れ、しばらく流れ続けた。
 たまらなく、夕凪に会いたくなった。
 目を閉じて、大きく息を吸う。夏とはいえ明け方の森の空気は涼しく、冴えていた。いっぱいまで吸って、一瞬止めて、ながくながく息を吐いた。珍しく心の中からクルイだとか狂環師だとかのこと全てを追いやって、たったひとつ、ひとりのことを考えていた。
 夕凪。今は無理なことはわかっている。だからこそ、いつか。
「会いたい」
呟いた本音は、弱音なのか決意なのかよくわからない。
 それでも少しだけ、胸の奥の方があたたかくなった。センは立ち上がる。
 今日も旅をするのだ。胸を張って会いに行くためには進むしかないのだから。

おわり

甘ったるい感じが良いなって思ったら、こうなったわけです。
冷静になってみると欲求不満な男が夢の中で女の子にアレやコレしちゃってるだけじゃねぇかということで焦っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!





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