愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



藤下心中*1  ||―フジシタ シンジュウ―

「沙智」
 小さな泉のほとりで、利彦は愛おしい人の名を呼んだ。沙智は泉の中に座り込んでいる。うつむいていて、顔は見えない。
 利彦の耳はほとんどの音を捉えていなかった。目はほとんどのものに興味を示さなかった。聞きたい声、見たい姿だけがはっきりしているような、変で、幸せで、そして狂った感じだ。
「沙智」
 もう一度呼ぶ。沙智がやけにのろい動きで顔を上げる。ほつれた髪と白い肌。はだけた襟元から豊かな胸が覗く。目に光はなく、墨で塗りつぶしたようだ。
「利ちゃん、とし、ちゃん」
 見る間に顔が歪み、涙で瞳が濡れる。
「沙智」
 なるべく優しい声を出して、利彦は泉に足を入れた。足首辺りまで絡まる水はやけに生温くて、気持ち悪かった。
「わたし、夜依をっ、夜依をっ」
 沙智は頬に爪を立て、掻きむしる。
「やめろっ」
掴んだ手首は冷たすぎて、泣きたくなる。
「やめてっ、わたしっ、わたしは、もう利ちゃんの知っている沙智じゃないっ、夜依に慕われる詠姐ぇでも沙智姉ぇでもないのよ……ただの醜い、狂環師だわ」
もがきながら叫ぶ沙智を利彦は抱きしめる。力いっぱい、抱きしめた。沙智が軽く呻いた。
「止めてやれなくて、ごめんな」
 沙智が狂環師だと知って、利彦がやったのはクルイを殺すことだった。沙智が狂わした獣を夜な夜な殺して、表だけでも繕っている、つもりだった。
 沙智は心の均衡が崩れるとクルイを造ってしまうらしい。利彦がセンと仲良くしているように見えたからセンを狂わそうとし、薬まで盛ってしまったと聞いたときは驚いた。普通に考えれば、おかしい。どこか、狂っている。
 きっと沙智は心を少し失くしてしまったのだろう。狂わされてしまったのだ。
「沙智、ごめんな」
 止めてやることが、沙智の心を埋めてあげられなかった自分が情けない。本当に沙智のことを想えたていたなら、獣を狂わしている内にハチロクに突き出すべきだったのかもしれない。
 それが出来なかったのは、沙智と同じ――穏やかに流れる日々を壊したくなかったからだ。誰とも離れたくなかったからだ。全て守ってやれると自惚れた挙句、八方塞がり。
 でも、だからこそ、もう。
「お前がいてくれるなら、狂環師だろうが何だろうがいいんだ。いいんだ、沙智」
 利彦の声は低く掠れ、それでいて甘たるい響きをもっていた。こんな場所より閨での睦言の方が似合っているような声。
 心の底からの想いだった。伝わればいいと思いながらも、届かないことも感じていた。聞こえはしても届かない言葉。
「お前の罪は、俺も負うから」
 もう戻れないなら、突き詰めればいい。
「夜依が、ねえ、夜依が」
嗚咽に交じり繰り返す。ほら、やはり沙智には届いていない。
 夜依が沙智の支えだった。利彦じゃない。沙智には自分を女にしてくれる利彦よりも姉やあるいは母のように慕ってくれる夜依が必要だったのだろう。
 じゃあなんで大切な夜依をクルイにしたんだ、なんて聞かない。仕方がないことだ。もう、仕方がないことだ。
「沙智、疲れただろ」
びくりと沙智の体が硬くなる。
「沙智、愛してる」
「やめて、よ」
 くぐもった声は嗤っているようにも聞こえた。沙智が利彦の体を押し返す。やめてよ、詠花は繰り返した。
「利ちゃんにだって、同じよ。わたしは誰に想ってもらうほどの女じゃない。ふふ、何が芸は売っても体は、よねぇ。ふふ、わたしは、」
「やめろ、言わなくていいから」
ふたたび力いっぱい抱きしめたが、沙智の言葉を止めることはできなかった。
「利ちゃんなら勘付いているんでしょ。わたしがどうやって人を狂わせるのか」
 自嘲に歪む沙智の唇を、くちびるで塞いだ。心のこもらない、獣みたいだ。ただ無意味に、吐息のやりとりをする。
 むさぼってしまいたかった。この愛おしくて、可哀想な沙智の遣る瀬のない悲しみも苦しみも何もかも。終わりにしたい。
 口を離す。お互いの息が少し荒かった。
「いこうか、沙智」
潤んだ瞳をのぞきこむ。そこにはまだ迷いがあった。悪いと思っている。潰されそうなほど、苦しんでいる。
 上手くいかないことだらけだ。
 ちらり、と弥久のことが頭をよぎった。謝った。
 夜依を巻き込んでしまって、ごめん。謝ったところで許されることではないけれど、何度も何度も謝った。
 弥久に慕われるのは心地よかった。弟のように思っている。水色屋の人たちもみんな、大好きだ。
 でも結局、捨てられるほどたった。
 ごめんな。
 最後の謝罪だけ、少し違った。
 沙智に言う。自分にも言っているのかもしれない。
「もういい、いいんだ、沙智」
もういいよ、終わりにしよう。涙が一筋、頬を伝った。
「うん」
 まどろむような覚束ない目をした沙智に、もう一度、くちびるを重ねる。
 選んだ道はきっと間違っている。安易で独りよがりな道だ。それでも、ただ、少しでも早く沙智を、仮初めで良いから、救いたかった。そんなこと既に出来ないけれど。
 もう救えないほど深い場所にうずくまる沙智。救えないなら、一緒に、深く深く。
 口が重なって、息も重なって、体がびくりと固くなったのも同時だった。利彦は沙智の腹に匕首を突き刺していた。力いっぱい、想いを込めて。そんな利彦の首には、犬のクルイの牙が食い込んでいた。ちょうど良い。これなら一緒に逝けるだろう。
 呻きと共に溢れてきた血が、繋いだ口を介してまざり合う。温かい血が流れ続けている。利彦から、沙智から。
 一緒に、いよう、と。
 抱きしめて、口付けをし、暗くなっていく中、想い続けた。
 沙智、沙智、愛している。



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