愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



夜に依る狂い咲き*8  ||―ヨル ニ ヨル クルイザキ―

「やえ」
 やっぱり、いた。こみ上げる嬉しさに思わず笑みが浮かんだ。
 藤下泉に夜依はいた。月明かりが差し込むその場所に夜依の後ろ姿があった。
「夜依っ」
姿を認めたことでほっとした途端、状況がわかり、ぎょっとする。
(なんだよ、これ)
藤下泉にはクルイが溢れていた。泉の周りのわずかばかりの地面に所狭しと。
 獣たちは白い目を剥き出し、殺し合っている。
 噛みつき、引き千切り、呻き鳴いてはまた噛みつき、肉を千切り、死ぬか殺す。殺しては次を求めて牙を、爪を向く。
 狂っている。
 ひ、と息を呑むと血の匂いでむせた。
 その音を聞いたのか、そもそも膝から流れる血に反応したのか一匹のクルイと目が合う。当然白い目のそいつは、子犬だった。
 それなのに、恐い。
「う、わ」
動かなくなりそうな足を必死で動かした。まだ壊れるな。
「夜依っ」
逃げなくてはと思った。はやく夜依を安全なところへ。夜依が怪我をしていたらどうしよう。かすり傷でも大ごとだ。
「夜依っ」
 殺し合うクルイたちの間を駆け抜ける。
 あと一歩だ。手を伸ばせば届く。弥久は前のめりに手を伸ばし、抱きしめようとした。夜依も振り向いてくれる。
「やえ」
伸ばした手は夜依に触れる前に自然と下がった。ふっと体から力が抜け、転んでしまった。起き上がったが立ち上がる気力はもうなかった。
 そうだった。忘れていた。思い出したくなかった。
 夜依を見上げる格好で弥久は思った。
「夜依は、」
 夜依はクルイになったんだ。だから夜依の瞳は白いのだ。そんなことも忘れていた。
 夜依はうっすらと笑む。手には刃物を持っていた。
「やえ、やえ、やえっ」
呼ぶ。夜依はこちらを向いているが、その瞳に弥久は映っていない。振り上げた刃を自然と目で追っていた。
「やめろ、やえ、やえ」
俺を殺すなよ。お前に人殺しになんかなってほしくないんだ。
 声は届かない。想いも届くはずがない。体も動かない。情けない。もう、だめだ。涙で夜依の姿がぼやけた。
 弥久は両腕を広げた。
 何もできないけれど、最後にせめて夜依を抱きしめたかった。
 降りおろし、夜依の体が近づく。
「ぐ、ぅ……っ」
厭な音。肩だ。骨が砕けて、痛みよりも先に背筋にぞくぞくと寒気が走る。いつかと同じ感覚。血の臭い。
「や、えぇっ」
 最後の力を振り絞って弥久は夜依の体を抱きしめた。言葉にはならないから、ひたすら心の中で祈った。
 夜依が傷つきませんように。俺が死んでも夜依は悪くないからな。俺を殺したことなんか忘れて、幸せになってくれ。
 夜依が、どうか幸せでありますように。
「ぐぁっ」
 夜依が弥久を突き飛ばし振りほどいた。仰向けに倒れこんだ。真っ暗だ。
 今度こそ駄目だ。
「弥久さんっ」
 センの声。はっとして目を開けて初めて、目をつぶっていたことに気付いた。
 センはすごい勢いで走ってくる。
「夜依ちゃん、だめだっ」
夜依がまた弥久に刃物を構えていた。
「っ、や、ぇ」
 どん、とセンが夜依に体当たりした。
「かはっ」
夜依が吹っ飛ぶ。
「夜依っ! センさん、やめろっ」
弥久の叫びも聞こえていないのだろう。夜依はすでに起き上がり、センに刃物を付きたてようとしていた。
「ふ、ぅうっ」
 センは刃ごと夜依の拳を受け止めた。それでも夜依は空いている手で殴ろうとしたが、たやすく捕まった。
「やえ?」
夜依の体がぶるぶる震える。センの手の平から血がしたたる。また思う。
 これはまるきり、昼間の繰り返しだ。
(ひる、ま)
 潰れた男のクルイの姿がよみがえる。夜依の姿に、重なる。
「弥久さん、大丈夫、落ちついて」
口早なセンの言葉が弥久の考えをさえぎった。
「だい、じょうぶ?」
「夜依ちゃん、夜依ちゃんは間違えちゃいけないよ、戻っておいで」
 センは弥久の問いに答えず、夜依に話しかけている。夜依はセンの手を振り解こうと暴れる。センの手から血が滴となって地面に散った。
 それよりも、
「夜依は大丈夫なのか。なあ、夜依は、クルイになって、俺のことを、忘れちまったんじゃねぇのかよ」
言っているうちにまた涙が出てくる。
「間にあうよ、夜依ちゃんは、真に狂ってない。ほら、泣いてる」
(泣いてる?)
 たしかに夜依は涙を流していた。白い瞳から涙を零しながら、センに向かい、唸っている。
 センが無理やり夜依から刃物を取り上げた。暴れるのを押さえつけ、弥久の方に突き飛ばす。弥久は反射的に抱き留めるが、夜依は暴れる。凄い力だ。肩も痛い。
 でも絶対に、
(離さねぇっ)
「離さないでね」
弥久の想いとセンの言葉が重なった。
「名前を呼んで、抱きしめて、とにかく一緒にいてあげて。きっと、間にあう」
「センさん」
振り向かない。ここに至ってようやく、センのことが心配になった。
(どうしてそんなに苦しそうなんだよ)
 センは泣いているわけでも怒っているわけでもないのに、何がこんなにも弥久を不安にさせるのか。
「弥久さんは夜依ちゃんを見ていて。こっちは俺がやる」
 有無を言わせない言い方。こっち、と言われて初めて気づく。クルイに囲まれている。すごい数だった。
「いくらなんでも無理だ、逃げようっ」
「いいから」
 短い答え。センが刀の柄に手をかける。
 本当に、すぅっと周りの熱や音や何かが色々、引いていくのを肌で感じた。
「セン、さん」
「俺はね、ハチロクなんかじゃないんだ。むしろ、逆」
なぜか少し楽しげな響きをもっていた。
「逆、って」
すらりと抜き放ち、夏の夜気は、完全に冷えた。
「いざとなったら、俺から逃げなよ」
「は」
 振り返ったセンは、薄く笑みを浮かべている。さっきの夜依みたいに。
 どうして。センの片目は、どうして白いのだろう。



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