愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



夜に依る狂い咲き*7  ||―ヨル ニ ヨル クルイザキ―

 弥久は目を覚ました。辺りはうす暗くなっていて、横にいるのがセンではなくお梅であるということ以外、まるきりさっきの繰り返しのようで苛立った。何も進んでいないような気がしたのだ。実際、何も進んでいないのだろう。
 お梅は座敷の隅で居眠りしている。疲れているのだろう。弥久にとっても都合がいい。
 音を立てないように、慎重に。腕で体を持ち上げ、左足で体を上げる。曲がりにくい右足にはなるべく力を入れないように。そっと、急くからこそ、確実に、立ち上がる。
 畳がきしむ。弥久の歩き方では忍び足にも限度があった。お梅の軽いいびきを聞き、襖を開ける。部屋を出た途端に、ふっと息をついた。
 入れ替わるように湧き上がる焦燥に押し出され、弥久はなるだけ早足で歩く。床がきしむ音も気にはしない。
 和泉宿全体に漂うざわめきを感じるのに、水色屋だけは変に静まり返っている。明かりもない。やはり、何も解決していないのだ。
「夜依」
 名を呼んだら、想いが溢れて止まらなかった。弥久は駆け出そうとし、転んだ。
「痛っ」
手を付くことができず、肘と顎を強かに打ち付けた。
「く、っそ」
 右足を思い切り叩く。夜依が大変なときに、どうしてこの足は動かないのか。
 這ってでも進んでやる、想いはあるのに動かない。腕さえまともに動かない。
「なんでだよ」
 なぜ、いつもより動かない。いや、わかっている。
 恐いからだ。
 クルイを恐れているし、クルイになった夜依を見ることを恐れている。恐いから、体が動かない。
「くそ、くそっ」
 動けよ。あの時みたいに。
 弥久を刺した父親から逃げた時、みたいに。あの時は走れた。夜依に向かって包丁を振りかざすあいつから、逃げ通せたじゃないか。あの時走ったから今の幸せがある。夜依がいる。
 動けよ。
 このままじゃ、失っちまうじゃないか。走って守り通せれば、きっとまた元通りの幸せがあるんだ。だから走れ、動け。お願いだから。
 あの時は血が出ていたのに走れた。斬られた足で駆けたのだ。血が出ていないと走れないというなら、出してやる。
 ふと目に入ったのは、うす暗い中にぼんやりと浮かぶ障子戸だった。その桟、木枠が目についたとき、自然と動いていた。
 障子紙を破るのも厭わず桟をひっつかみ、壊した。ばきりと折れた木の先はとがっている。
 迷わずそれを、足に突き刺す。刃物のようにはいかなくて、なかなか肌を突き破らない。
「う……っく」
惨めだ。このままなんて、惨めだ。何度も何度も、突き刺した。
 思い切り振り、膝に怪我を負わせる。痛みはある。でもこんなものどうでも良い。
 夜依を守るのだ。
 そのためにはこのままではいけない。走らなきゃ。走らなきゃ、夜依が死ぬ。
 そんなの、嫌だ。
「動けよ」
 破れた肌からたらたらと血が流れ始めた右足に命じる。願いに近かった。何年も動かせなかった足が動くわけがないと冷静な部分が嗤っている。
 邪魔だ。
 そんな冷静さなんて要らない。
 邪魔をするなら要らない。
 狂え。狂っちまえ――――――――――動いた。
「っ」
 十年もまともに動かせなかった右膝が曲がった。信じられなくて一瞬呆けた。でもすぐにそれは邪魔だと気付く。
 今考えるべきなのは当たり前に照らし合わせたことなんかじゃない。夜依だ。夜依のことだけだ。
 立ち上がる。走れるのかなんて不安はない。今ならできる。狂ってるんだから、できるさ。
 暗い廊下を走り抜け、水色屋を飛び出す。名を呼ぶ。
「夜依っ」
 夜依は和泉宿の中にはいない。弥久は駆けはじめてすぐ、そんな思いにかられた。普段とは様相を異にした夜の宿場。人気はぶら提灯を持った二人一組になった男たちぐらいで、険しい顔や恐がり顔、面倒そうな様子で歩き回っている。
 いなくなった時からこのやり方で探しているのなら、いくら和泉宿が広いとはいえ隠れ続けることができるとは思えない。しかも沙智は夜依を連れている。
 そうなると、沙智はどこに行くだろう。考えたとき、弥久の足は自然と藤下泉に向かっていた。
「夜依」
 夜依が藤下泉にいるような気がして、仕方ない。
「弥久っ!?」
大木戸の前で声をかけられた。
「平太か」
棒を握りしめ大木戸の前に立っているのは同い年の平太だった。水色屋と同じ通りの小間物屋の奉公人で、お互い見知った仲だ。平太は弥久を見て目を丸くし、それが足にいくと更に驚いた顔をした。
「お前、足、なんで走ってんだ。大変だ、血ぃ出てる」
「それより木戸を開けてくれ。どうして閉まっているんだ」
 平太の気遣いを無視して聞いた。
「は、何言って」
「藤下泉に夜依がいるんだ」
「そんなわけない、落ちつけよ。詠花さんたちが逃げてすぐに木戸は閉めきられたんだ、出られるわけないだろ」
「そうか」
 無駄だと思った。平太の言うことに納得したと言うよりも、この時間が無駄だ。弥久は平太に背を向ける。木戸を右に。宿場の者しか知らない抜け道。
「おいっ、弥久っ」
「うるさいっ」
平太の声を振り払い、弥久は走り出した。
 藤下泉に夜依はいる。いなくても、他に何も無いのだから、行くしかない。
「やえ、やえ」
 けもの道のような細い道を進む。息が切れる。足ががくがく震えている。痛くはない。
 立ち止まったら、きっともう立ち上がれないような気がした。普通に考えたら、そうだろう。十年もまともに動かなかった足で駆け回っているのだ。普通、できることじゃない。
(ふつうなんて、いらねぇ)
夜依を助けるために邪魔なものは要らない。夜依だけ居ればいい。そのためなら、自分さえ、要らない。
 立ち止まるのも泣くのも歩けなくなるのも全て、夜依を抱きしめてからだ。夜依を取り戻してからだ。
「やえ」
 何度も転びかけながら、弥久は藤下泉を目指した。



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