愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



夜に依る狂い咲き*4  ||―ヨル ニ ヨル クルイザキ―

 次の日も水色屋は店を閉めていた。たぶん、今日まで。
 昼下がり、蝉ばかりが場違いにうるさく鳴いている。センは部屋から一人、ぼんやり空など眺めていた。
 弥久は詠花の元へ料理を届けに行っている。
 弥久は朝から源衛と一緒に料理場に籠っていた。源衛が弥久を呼びにきたのだ。沙智ちゃんに料理を作ってやろう、と。料理を作ってあげられる、最後の機会になるかもしれないから、と。
「センさん」
 昼を半刻ほど過ぎた頃、センの元に利彦が現れた。半分うたた寝していたセンはびくりと顔を上げた。
「あ、弥久さんならここには」
「知ってやす。昼前に沙智のところに弁当を持っていきやしたから、じき帰ってくるでしょう。センさんに、少し」
「俺ですか」
(なんだろう)
 利彦は穏やかな表情で言う。
「沙智の沙汰が出たんです」
「詠花さん、どうなるんですか」
なぜかセンの方が怖くなってしまい、声が震える。
 利彦はふ、と本当に小さな笑みを浮かべた。
「永牢になりやした。央都のハチロクの牢屋に入れられるって、旦那さまが」
「じゃ、あ」
利彦と詠花は離れ離れになってしまう。
「行けるところまでは、俺も行く」
 力強い口調だった。行けるところとは、どこなのだろう。中都までという、そのままの意味以上の何かがある気がした。
 それを聞くべきか迷ったとき、ふと別の疑問がよぎった。
「利彦さん、なんで俺に教えてくれたんですか。まだ他の人は知らないですよね」
 きっと正式に沙汰が下りていたら、すでに騒ぎになっているはずだ。それがないということは、一足早くセンに教えてくれたということだろう。
「どうしてですか」
少し考えるそぶりを見せ、
「これが俺の答えだってことを、知っておいてもらおうと思って、かな」
上手く言葉にできねぇ、と利彦は笑った。
「センさんには俺たちとは違う道を選んでほしいなんてな。センさんと千花さんは俺と沙智じゃねぇのにな」
 いくつかのことが何となく、わかった。
 利彦は勘違いをしている。千花とセンを恋仲だと思っているのだ。たぶん千花も女衒か誰かに連れて行かれてしまったとも。いつか利彦が藤下泉で言った“そういうのに詳しい奴”というのは詠花のことで、女郎仲間のことを言っていたのだろう。
 違うのだと言った方が良いのか。
「俺は沙智を幸せには出来なかったけど、離さねぇんだ」
 利彦はかっこよかった。晴れやかな顔ではないけれど、見ているだけで想いが伝わってくるような。
 ここまで想われている詠花は幸せなのではないだろうか。違うのだろうか。よくわからない。
(やめよう)
嘘をついたままになってしまうけれど、このまま和泉宿を去ることに決めた。夜依も元気を取り戻しつつあるようだし、弥久だって大丈夫だろう。
 これからの成り行きを見ていくのは、きっとただの好奇心になってしまう。
「利彦さん、ありがとうございました」
センは頭を下げた。たぶん、利彦の示してくれた答えはセンにとっても標になる。
(弥久さんが帰ってきたら、今度こそ出発しよう)
 もう弥久が詠花と夜依のところに行って一刻(約二時間)ほど経つ。そろそろ帰ってくるだろう。
「弥久もそろそろ帰ってくるでしょう」
利彦も同じことを言った時ちょうど弥久の足音が聞こえてきて、センと利彦は小さく笑い合った。



 宿場役場から戻ってきた弥久は少し浮かない顔をしていた。
「どうした弥久、沙智に、夜依に何かあったのか」
利彦の顔も曇る。
「いや、そういうわけじゃ」
「弥久さん、気になることがあるなら言った方が良いよ」
「そうだ、言ってみろ」
 センと利彦に促されても、弥久の口は重かった。
「少し、気になっただけだよ」
しばらくしてからぽつりと言う。
「沙智がか。それとも夜依か」
「まあ、夜依も元気なかったけど。本当になんでもないんだ、利兄ぃ。俺が少し気にし過ぎなだけだから」
 目を逸らす弥久に利彦が舌打ちをした。
「それでもいいから言えって言ってんだ、弥久」
低い声で詰め寄ってから、はっとバツの悪そうな顔をした。
「悪ぃ、弥久。いらいらしちまった。でも出来れば話してくれ。俺はお前のことも心配してるんだ」
「ごめんね、さよなら」
 心の籠らない声で弥久が言った。
「は」
利彦が目をわずかに見開いた。センも同じ気持ちだ。なんだ、それは。
 気のせいだと前置きし、弥久は説明した。
「沙智さん、帰り際に言ったんだ。『ごめんね、さよなら』って。だた俺が帰るから言っただけだろうけど、なんとなく気になって」
そう言いつつも声は暗かった。
「沙智は、どんな様子だったんだ」
 利彦の声が少し上ずった。
「少し、笑ってた。沙智さんは色が白いだろ。うす暗いなかでぼんやり浮かんでみえて、すこし、怖かった」
弥久の頬からも少し赤みが失せている。
 ほの暗い牢の中、白い面(おもて)の、紅いくちびるを小さく歪めて、綺麗な女(ひと)が言うのだ。
「『ごめんね、さよなら』」
利彦が詠花の言葉をなぞった。
(何がだろう)
 詠花は、なにを謝ったんだろうか。ただ自分が狂環師で弥久に迷惑をかけたという意味だろうか。
(ちがう)
なにかが、違う。そうじゃない。弥久に謝らなければならないようなこと、それは――。
 その姿が頭の中にかすめた時、表から大声が聞こえた。聞き覚えのあるようなないような声が、水色屋の者に訪いを入れている。焦っているように聞こえるのは勘違いか。
「何だろう、利兄ぃ」
立ち上がろうとしながら弥久が首をかしげた。弥久も何か不安に感じているのか急いた声音だった。
「大したことじゃねぇだろ」
 ぶっきらぼうな調子で言うと利彦は立ち上がって頭を掻いた。
「そんな辛気くせぇ顔すんな」
「あ、うん」
利彦に言われて弥久も小恥ずかしそうに頬を掻く。
(利彦さんが言うなら、大丈夫だ)
センもさっきまでのざわざわした感じが少し薄らいでいた。
 利彦は襖を開けると部屋を出ていった。センも後に続く。
「弥久さん、そんな急がなくて大丈夫だよ、きっと」
「ああ」
右足が動きづらい弥久は、急いで立とうとすると転んでしまうことがある。
 センは弥久の後を付いていくべきかちょっと迷ったが、弥久が立ち上がるのを手伝った。
「もう大丈夫、先行っていいよ」
弥久がそう言うのでセンは廊下へ出た。やっぱり何事か気になるのだ。すでに利彦の姿はなかった。
(大丈夫だ)
と思う割に、なぜか進める足がやけに速くなってしまった。
 水色屋の土間には何人かが突っ立っていた。利彦に源衛、お澄にお梅をはじめ店の者が三人。源衛の前に立ちすくんでいるのは、確か宿場役所の小者だ。三枝のところで見たにきび面の男。
 ただならないことは、センにもわかった。
「利彦さん、どうしたんですか」
駆け寄って小声で尋ねたが、返事はなかった。利彦の横顔に表情はなかった。わずかに口を開け、光のない目をしている。
 代わりに声を出したのはお澄だった。
「あ、あ、あぁ」
 声を出しただけで意味にはなっていない。ゆらりと振り返った。青白い。ひと回りも、もっと老けたように見えた。
 なにかあった。なにが、あったのだ。
「どういうことか、もう一度ってくれ」
源衛の低い声。ゆっくり話すから、むしろ、なお、恐ろしい。小者は「ひっ」と首を縮めた。
「あ、のっ、だからっ。宿場の牢から、詠花さんと夜依が消えて、ひっ」
 源衛の様子が相当怖いのか、小者は頭を両手で抱えた。
 詠花と夜依が消えた。逃げたということか。
 なぜ。どこへ。なんのために。
 なにがあった。
 センは縮こまる小者に問おうとした。口を開いた。その一寸(ちょっと)前に小者が震える声で伝えた。
「夜依の黒目が、抜けてた、ってぇ、誰かが」
(黒目が抜ける? 夜依ちゃんの?)
 体から熱と音が引いた。
「だからっ、それじゃあ意味がわからねぇっつてんだよっ」
源衛の怒鳴り声だけがやけにはっきりと聞こえた。大きな声だとしか思わなかった。
 わからないんじゃない。わかりたくないのだ。
 黒目が抜けた。クルイの証。
 夜依がクルイになった。
 わかりやすい事実を、わかりたくないと心が叫んでいる。
 源衛の怒鳴り声に小者はついに地面にへたりこんでしまう。利彦は板間に崩れた。ふらふら傾いだお澄の体をセンは咄嗟に支える。
 すべてが薄鈍く動いているような気がした。
「うそだ」
小さな呟きがセンを正気に戻す。弥久の声だ。
 振り向きたくないのに、思った時には弥久の顔を見ていた。
 見なきゃよかった、見たくなかった。
 全部ぜんぶ、戻ってくる。夏の陽気、蝉の声、首筋の汗、見たくもない現実。詠花と夜依が消えた。夜依の黒目が消えた。クルイだ。
 考えていたよりもずっと、ずっと悪いことがはじまる。



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