愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



花閉じの静寂*5  ||―ハナトジ ノ シジマ―

「えっ」
 声を出したのは、部屋の隅で調書を取っている男だった。詰め所に三枝以外いないので連れてこられた、宿場役場の小者らしい。
 三枝は小者を見、外へ顎をしゃくる。
「おう、詠花のことは宿場役人に任せるからよ、早く連れていけ」
「い、いや、しかし、三枝さま」
「うるせぇな。いや、致し方ないのだ。確かに本来、クルイや狂環師に関してはハチロクが当たるのが筋である。しかし今、和泉宿にはハチロクの者は私しかおらぬ。それはわかっているな」
「はぁ。朝暮廷の勅使さまの」
「そう、権造林さまだ。他の者は皆、そちらの警護にあたっていて、和泉宿を出ている」
 うむ、と胸を張った三枝に小者はおそるおそるといった様子で問うた。
「それで、あの、それがなぜ詠花さんのことを宿場役所に任せることになるのでしょうか」
ちっ、と舌打ちの後。
「うるせぇっ。こちとら人手がねぇんだよ。その上、狂環師がどうのこうのだぁ? ふざけんじゃねぇっ。どうしてもハチロクに裁いてほしいなら他の連中が帰ってくるまで待っていやがれってんだ」
胸倉を掴まんほどの勢いで三枝は怒鳴ったが、よく聞けば――というかどう考えても暴挙である。
 それでも小者にしてみれば大層怖かったようで、すっかり縮こまってしまった。
「ひぃ、い、や、き、聞いてきますっ」
「ああ、ついでに馬も蹴散らしとけ」
三枝はにやりと笑い、再び詰め所の外を顎でしゃくった。
「は、はいぃっ」
やけに高い声で返事をし、にきび面の小者が詰め所を飛び出していった。外には野次馬が少なからずいたようで、「散って散って」と叫ぶのが聞こえた。
 誰もしゃべらない一瞬に、宿場のいつも通りの喧騒が入り込んでくる。まるでここだけが真夜中に置き去りにされたみたいだ。
「あたしが、いけないのよ」
 ぽつり、と落とされた詠花の言葉を誰も拾わなかった。センはどう言っていいかわからなかったし、三枝は話は終わったとばかりに背を向け寝ている。利彦は、わずかに眉間にしわを寄せ目をつぶっていた。
 誰の応えがなくとも詠花は話すのをやめない。ぽつりぽつり、独り言のようにぽつりぽつり、とぎれとぎれ。
「あたしは、ここに戻ってくるべきじゃなかったんだわ。もう、狂環師になって人を殺してしまった時点で、幸せなんて望んじゃいけなかったのよ」
センの心に、その言葉が刺さる。
「本当は、和泉宿に戻ってくる気はなかった。利ちゃんや夜依の様子を少しだけ見て、消えるつもりだった。でも利ちゃんに見つかって、明冲屋に置いてもらえることになって」
利彦の体が震える。詠花はその手をとると、場違いなほど優しい声で語りかけた。
「いやね、利ちゃんを責めているんじゃないわ。反対よ、利ちゃんに見つけてもらって、またここにいられるようになって、あたし、うれしかった。悪いのは、あたし」
「沙智」
利彦の声は頼りない。
 あたしが悪いの、と詠花は繰り返す。
「あたしが悪いのよ。利ちゃんとも夜依とも弥久くんやお澄さんや宿場の人たちと、誰とも離れたくないって思って、ここに留まった……あたしの心が弱いのが、ねえ、あたしが、悪いの」
言葉を重ねるごとに詠花の言葉に涙が混じる。泣き顔をセンに見られるのが嫌なのか、利彦の胸に顔をうずめた。利彦は動かず、ただ胸を貸していた。
 全部無くしたくなかった、詠花は言った。利彦も言っていた、全部守りたい、と。なにも悪いことじゃない。我が儘や欲張りは、なにも悪いことじゃない。誰でも心に持っている。ただ言葉で心を隠しているだけで、誰の心にも弱さなんてごろごろしている。
「あたし、どうなっちゃうのかな」
くぐもった声。誰も答えない。答えを知らない。
 ただ利彦が、詠花の背に手を回しぎゅうっと思い切り、抱きしめていた。
 さっき出ていった小者が、もう何人か引きつれて戻ってきた。詠花を連れていき、それに付き添うように利彦も出ていく。
詰め所に残されたのはセンと三枝だが、三枝は寝てしまっているらしい。
「あの、おじゃましました」
センはいそいそと、ハチロクの詰め所を出た。




「く、くく、くくくっ」
 センという男が出ていったばかりの戸を見て、三枝は喉を鳴らした。
「ったく、なんて間抜けそうで人の良さそうな面をした奴だ……あんな奴に任せていいのかよ」
懐の微かな厚みを撫でる。手紙が入っているのだ。
「まったく、どうするつもりかねぇ」
めんどくさそうに立ち上がり、大きく伸びをした。
「まあ、いいや。これがあれば俺に面倒はかからねぇしな」
 もう一度懐中の手紙に触れてから、三枝は刀架の刀を手に取る。漆塗りの錆茶の鞘に柄は鮫皮で巻いてある。一見して地味なものだが、抜けば分厚い刀身に切っ先は大帽子、刃文は凪いだ湖面のような刀身が現れる。折れにくく、切れ味を持ったどこまでも実戦向きの代物なのだ。
 無造作に持ったそれをちょっと眺めたが、すぐに同じ作りの脇差と持ち替えた。抜く。
 詰所の隅の文机の上の紙束を手に取る。さっき小者に書かせた詠花に関する調書だ。心の中で小者にご苦労なこった、と言った。
 調書を放る。脇差をばっと、振り上げ、振りおろし、薙ぐ。
「うーん、たまには動かないと鈍っちまうからなぁ」
調書は歪な形の紙片となり床に散らばった。
「あれ、もう鈍ってるな」
三枝は不満げな顔をして肩を回した。きれいな四角に切れてくれないと格好がわるい。
「まあ、俺には似合いか」
 大きな欠伸をし、紙をくしゃくしゃと丸め始める。
「あいつ、あんなんじゃこれからも色々面倒だろうなぁ」
紙を無駄にしながら、三枝はけけけと笑った。





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