愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



花閉じの静寂*4  ||―ハナトジ ノ シジマ―

 今も昔も、内側はぐちゃぐちゃで、どろどろだ。嫌われないように外側だけを着飾って生きていた。
 和泉宿の大店の娘だったとき、詠花は沙智だった。沙智が神隠しという言葉の陰に隠されて女郎屋に売られたのは、十五のとき。
 その時、沙智は身をもって知ったのだ。懇願というのは所詮、嘲笑われて、うつつに呑まれるのだ。
 ふた親と別れるのは大して辛くなかった。父親は金持ちの放蕩息子がそのまま成長したような男で、特に女癖が悪かったし、母親に関しては本当の母ではない。沙智の実の母は父親が手を付けた下女であったそうだ。
 本当に辛いは、利彦や夜依たちと離れることだった。水色屋や和泉宿の人たちと離れることだった。
 その人たちは、ぐちゃぐちゃに爛れた沙智の周りで唯一、きらきらした美しいものに見えたのだ。
 離れたくなかった。それでも沙智は売られた。願いは、叶わないものなのだ。
 狂環師の術を教えてくれた女に会ったのは、売られた先の女郎屋だった。美しい女だっと思う。
 利彦や夜依に会いたくて泣いていた沙智に女は言う。
『親と女衒(ぜげん)の関係なんて所詮は約束なのよ、定められているだけなの』
約束を破ったら盗人になるではないか。嘘つきは泥棒のはじまり。
 女は沙智の言葉を笑い飛ばした。
『それはそう、定められているから。そんなもの無くなれば、あんたは自由さ。愛おしい人にも逢いに行けるよ』
愛おしい人、利彦。どうすれば、どうすれば、定めを無くせるのか。
『狂わせれば、良いの』
 女は笑った。にやり、と。
 曖昧にしか覚えていない女の容姿なのに、なぜかその表情だけは鮮明に覚えている。




 その美しい女は最初に、詠花に言ったそうだ。あんたには殆ど才がない、と。もちろん、誰も彼もが狂環師となれるわけではないから、そういう意味では特別ではある。
 ただ、たまたま備わった才は微かなものだった。その辺の生き物ならどうにかなるが、人相手となったら、よほど上手くいかなければ紋無しで狂わせることは出来ないし、紋を使っても時間がかかる。
 それでも、詠花は女郎屋の若い衆を狂わしてみた。
「そしたらね、死んだわ」
詠花は薄く笑う。
 ぎゅ、と利彦が拳を握る音がした。詠花の隣の利彦はうつむいていて、どんな顔をしているかはわからない。
 センはといえば、ハチロクの詰め所の隅で手持ち無沙汰に座っていた。破落戸が狂わされて死んだ場所にいたからということで一緒に来るように言われたのだが、ハチロクの男は詠花の話を聞いていて、センの方には一瞥もくれない。
 沙智の前に座っているのは大木戸を出る時に見た、髪だけがやけにきちっとしている男だった。三枝(さえぐさ)、とだけ名乗った。
「ふぅん、お前さん、狂わして殺したのはこれが初めてじゃないんだな」
「はい」
「女郎屋を逃げ出して、そのあとどうした。すぐにここに戻ってきたのか」
「はい、でも一年もかかりました」
ぴくりと三枝の眉が動いた。
「一年、か。随分かかるんだな。いったい、どこの女郎屋に売り飛ばされたんだ」
 詠花が口にした地名はセンの聞いたことのない場所だった。
「あぁ、ここよりもっと北のところか。大して遠くもないのに随分時間がかかったな」
三枝が少しの間考え込んでから言った。
「ねえ、三枝さん」
 そんな三枝に詠花は挑むような目を向ける。
「逃げ出した女が身ひとつでここまで来るのには時が要るんです。あんたが思っている以上に。思えないくらいに、大変なの」
ひと言ひと言に重みがあった。
「そうか、ご苦労なことだな」
詠花に対し、三枝はあっさりと返した。あまりの冷たい口調にセンはひどいと思ったし、利彦も三枝を睨みつけている。沙智は一瞬ぼうっとした顔をしてから、眉をひそめ、口を開こうとした。
 その前に三枝が続けている。
「次は利彦、お前だ。お前、すべて知っていて詠花が狂環師であることを隠していたのか」
「はい」
利彦は深く頭を下げた。
「利ちゃんは、悪くないんですっ。何も知らなかったっ、少なくとも人を殺してたなんて……っ」
詠花は勢いこんだ。三枝に掴みかからんばかりだ。
「沙智、落ちつけ」
利彦がとりなそうとするが、やめない。
「センさんのことだって、利ちゃんは知らないわ」
「えっ」
これはセンだ。
(俺?)
 その思いは利彦と三枝も同じらしく、皆の視線が一斉にセンに集まる。
「センさん、ごめんね」
なんのことだろう。
「宿場の中にクルイが入ってきて、センさんが怪我をした日よ」
センの表情を読んだのか、詠花が付け足した。
「あれは、詠花さんのせいじゃないですよ」
 クルイを創ったのは詠花だが、怪我をしてしまったのはセン自身の不注意だ。詠花は首をふる。
「いいえ、わたしのせい、わたしの仕業なのよ。センさんに酌をした酒があったでしょ。あれ、薬が盛ってあったのよ」
(……っ)
単に酔ってふらついたと思ったが、そういうことだったのか。
「いや、でも」
「沙智っ、どうしてそんなことを」
 ふ、と詠花はため息まじりの笑みを浮かべた。
「クルイにしようと思ったのよ」
「だから、どうしうてそんな」
詠花は隣に座る利彦に顔を向ける。ふたりは見つめ合う形になる。
「なんでかしらね。きっとセンさんが利ちゃんや夜依と仲良くしていたのが、気に入らなかったのよ」
ははっ、と乾いた笑い声をもらした。
「馬鹿みたいでしょ。利ちゃんに近づく奴がみんな嫌いになる時があるの。恋敵じゃなくても嫌、みんな嫌……利ちゃんは自分のものだわ、って」
わたしの心が壊れていくみたい。詠花はぽそりと言った。
「ごめんなさい、センさん、本当にごめんなさい」
「いや、あの、気にしないでください」
 センは三枝をちょっと見た。詠花が狂環師の他にも人に害をなしていたと知り、ハチロクである三枝はどうするだろう。三枝という男が、センには全くわからなかった。
 三枝は何ともない顔をしていた。平気、というより聞いていなかったのではないかとすら感じた。
「ま、いいや」
三枝が言ったのはそれだけだった。綺麗に撫でつけた髪を無造作に掻き乱し、息をつく。
「堅っ苦しいのは面倒くせぇな、やっぱり。もう面倒なことは無しだ。利彦とそっちの若いのは水色屋に帰れ。詠花に関しては……まあいいだろ、ハチロクは関わらねぇ」



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