愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



花閉じの静寂*3  ||―ハナトジ ノ シジマ―

 男たちがこちらに向かってくる。
 センは利彦をかばい、男たちと対峙した。間はおよそ二間。もう一人も抜いた。白い目でけたけた笑い、口の端から涎が流れる。はだけた胸元から、ちらりと環の刺青が覗いた。
 センはくちびるの端を噛む。環の紋は、狂環師がクルイを作るときに用いることがあるのだ。形として対象に刻むことで、狂わせる力を補ったり強めたりするらしい。狂いの象徴。センの背中にも、刻まれているもの。
 また一歩、男たちが近づいて来る。ぼたぼた、涎が水のように地面に落ちていった。センは刀の柄に手をかける。
(どうする……)
たいして強い連中ではない、はっきり言って弱い。だが、箍(たが)が外れた者は侮れない。
 逃げるのが一番良い。
近くにはハチロクの詰め所もあることだし、任せるのがもっとも面倒がない。
 しかし、そうはいかない。
 ひとつは利彦。センの後ろにいる利彦は今、とても動揺しているだろう。逃げようと言って動ける状態ではない。
 それに破落戸たちがセンの前に現れたのが偶然ではない、気がする。どこまで操れるのかわからないが、このクルイたちには術者の、詠花の意思があるのではないか。
 逃げないと決めても不安が溢れてくる。
(抜けるのか、俺は)
 柄を握る手には力ばかりが入り、動かない。抜いて、大丈夫なのか。狂わないのか。近くにはハチロクがいる。怖い。狂うのが怖い。怖い、怖い。暗い気持が心を支配して、刀を抜くことをためらわせる。
(怖い)
「センさんっ」
 三つのことがほぼ同時に起こった。利彦がセンを呼び、その声を聞きながらセンは「怖い」と思い、匕首が目前をひらめいていた。
「え、っ」
体が後ろによろめく。目の前が、赤い。錆臭い、血。
「がっ、はぁ……っ」
(なんだ)
 センは利彦に支えられていた。利彦が咄嗟に引っ張ってくれたのだと、少ししてからわかった。どうやら利彦が動揺して動けないだろうと思ったのは、とんだ侮りだったらしい。
「利彦さん、ありがとうございます」
センの言葉の途中で、利彦が息を呑んだ。利彦がよろめく。センまで均衡を崩しかけたが、何とか踏ん張る。
 一瞬ずれた視線を破落戸の方へ戻すと、なぜだろう、 破落戸たちが倒れていた。
 センに斬りかかってきた方だけでなく、一歩後ろにいる男までが。己の吐いた血だまりにうずまり、溺れているようにびくりびくりと痙攣している。
 センたちを遠巻きにしていた人々の間からも悲鳴が聞こえた。ハチロクを呼びに行くのだろうか。いや、クルイが現れた時点で呼びに行っているのか。
(なんだよ、これ)
 頭のどこかでは、なぜか、わかっていた。
「なんだよ、これ」
 術が不完全だったのだ。
 狂環師は、対象の頭の中に術をかけ狂わす。下手なのか焦ったのか知らないが、とかく不完全な術に体が付いていけなくなったのだ。
 だから、死んだ。
 ぞわ、とする――血だまりに斃れた姿に、己の“未来(さき)”を見た。
「なんだよっ、これっ」
叫んだとき、頬からぼとりと何か落ちる。目玉だった。地面に落ちた破落戸の目玉の、わずかに残った黒目と目が合った。男たちの痙攣は止んでいた。
 こみ上げる激情を拳の中に抑え込み、センはふり返る。利彦の浅黒い肌が、今は青白く見える。呆けたような顔をしていた。
「なんだよ、これっ。どうしてっ、こんな……っ」
利彦が口を開こうとするのをさえぎった。
「死んだ。この男たちは死にました、狂環師のせいで死んだんだっ」
「そんなことねぇっ」
利彦は上ずった声で叫ぶ。
「こんな奴ら、死んで、当然だ」
聞き終えるか否か、気付くと利彦の胸倉に掴みかかっていた。
「本気でそれ言ってんのかよ、狂わすだけ狂わしておいて、死んだら当然だってか。ふざけんなっ」
 言いながら、涙が出てきた。利彦から手を離し、センは地面に崩れた。
「ふざけないでください、そんなんじゃ」
嗚咽に呑まれて、何を言いたいのかもよくわからなくなってしまった。とにかく、利彦の言葉が辛い。
「悪かった、センさんの言うとおりだ。わかってる、どんな奴だろうが、殺していいわけねぇ、悪かった。謝る」
顔を上げると、利彦は男たちの死体を見つめていた。
「この罪は、俺が負う」
その顔を、なんと言えばよいのだろう。とにかく、強い意志がこもっていた。
 センが何を言うとも考えず口を開いたときだった。
「待って、利ちゃんは悪くないっ」
声とともに駆けてきたのは、詠花だった。
「利ちゃんは、悪くないわ」
 荒い息でもう一度言い、詠花は利彦とセンの間に無理やり割り込む。センと対峙する。詠花は美しい顔を歪め、くちびるを噛み締めていた。センを睨みあげた。
 こうなってしまってはもう、利彦との約束を守れない。センは問う。
「詠花さんが狂環師ですよね」
「違うっ、沙智は、違うっ」
利彦が叫ぶ。
(さち?)
「もういいの、もう、いいよ、利ちゃん」
 詠花は利彦をふり返る。落ち着いた声。それからセンに向き直り、
「わたしが狂環師よ」
しっかりした口調だった。詠花からは普段の婀娜っぽさや艶っぽさが抜け、凛々しく見える。
 詠花はセンの後ろで死んでいる男たちに目を向けた。
「死んだのね」
鼻で嗤う、とはこういうことだろう。寒気が背中を抜けた。
「沙智、見るな」
利彦が詠花の肩を掴み、後ろに引いたが詠花の目は死体から離れない。
 それどころか反対に、詠花はにやりと嗤ったのだ。
「良い気味。死んで当然の奴らよ」
さっき利彦が言った時は感情が抑えきれず怒鳴ってしまったのに、今度は声が出なかった。詠花の顔にも声にもそれは見当たらないのに、悲しみを心に直に叩きつけられたようで、胸が苦しくなる。
「詠花さん」
センの頬には知らず、また涙が伝った。
 詠花は、優しい声音でセンを更に泣かせるようなことを言う。
「あら好い男が台無しよ、センさん。あのね、わたしなんかのために泣くことは無いの。わかっていたもの、こいつらが死ぬことは。これが初めてじゃない。前もね、やったことあるの。女郎屋の男を狂わしたら、死んじゃった」
ふふ、とほほ笑む。それは利彦さえ知らない事実だったのか、顔がこわばる。
 利彦が詠花の体をぐいと引き寄せ、真正面から顔を見ようとする。しかし詠花はそっぽを向き、顔を合わせようとしない。
「沙智、おまえ」
「想ってもらうほどじゃ、ないのよ」
 センの方を向きながらも、詠花はきっと利彦に言ったのだ。
(想わないはず、ないのに)
 色恋に疎いセンだけれど、利彦の気持ちの深さはよくわかる。いや、センなんかにはちっともわからないくらい深い想いがあるということが、わかる。詠花にクルイを作らせないために――利彦はたぶん詠花がクルイを作ったらどうなるか薄々気づいていたのではないか――、夜の森で破落戸たちに殺すと言い放った利彦。破落戸の死を前に、罪を負うと言い切った利彦。愛する人に幸せであって欲しいと願う利彦。きっと詠花も同じくらい、利彦のことを想っている。
 悲しくて苦しくて、ぽろぽろと涙が流れてくる。センが言えることなんてないけれど、ひとつだけお願いをした。
「詠花さん、利彦さん、泣きたいときは、泣いてください。お願いします」
本当に悲しくて苦しいのは詠花や利彦だから。
「ふふ、うう、ぅ」
 笑おうとした詠花の顔が見る間にゆがむ。涙がこぼれる寸前、さっと利彦の胸に顔をうずめた。
「沙智」
利彦も泣きだしそうな顔をしていた。それでも涙を見せず、詠花を強く抱きしめている。
 利彦は詠花を、強くつよく抱きしめている。
 宿場の方から、ハチロクが来たという声が聞こえた。



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