愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



花閉じの静寂*2  ||―ハナトジ ノ シジマ―

 すんなりと事は進んだ。
 昼過ぎ、弁当を持ってきてくれた弥久に別れを告げ、小さな風呂敷包みだけを手に水色屋を出た。世話になった人たちに直接礼を言えなかったのは心苦しいが、仕方ない。手紙を置いてきた。
 稲荷に隠した刀を腰に差し、菅笠を目深にかぶった。草鞋の緒をしっかりと締め直す。
 旅をまた、始めるのだ。
 大木戸へ続く通りは人が多かった。この時刻は人、特に男が多いのだと弥久が言っていた。日の長い夏場は昼過ぎに出発しても健脚な者なら和泉宿から四里ほど離れた二つ先の宿場まで歩ける。そういうわけで先を急ぐ者たちが昼飯を掻っ込んで先を急ぐ。
 大木戸をたくさんの人が通っていく。駕籠かき、商人風の男、おそろいの着物を着た女たちの一団もあった。こちらの大木戸は藤下泉があるのとは逆の位置にあり、すぐ脇にはハチロクの詰め所もあると聞いていた。
(ここか)
 心の臓がどきどきと鳴って、暑さのためではない汗が首筋を伝った。普通に通り過ぎれば良いだけなのに、ざわざわして、笠をおかしなほど目深にかぶってしまう。それでもやはりハチロクの詰所が気になって、ちらりと脇見をした――ら、中の男と目が合った。
 若い男だ。センより少し年上か。生真面目そうに撫でつけられた髪に目がいった。
 きちっとした髪に反して、男は鼻をほじりながら欠伸をした大口を手の平で覆っていた。器用なことだ。
 センと目が合うと男は、いったん姿勢を正し、すぐに人差し指を口の前にやった。気まずそうに笑っている。黙っていろ、というわけだ。センは、うんでもすんでもなく、半ば駆け出すようにして大木戸を抜けた。
 本当にあっさりと、木戸を抜けた。
 大木戸から続く道の両脇には松が植えられている。大きく枝を広げた松の木は夏の地面に日陰を作っていた。
「センさん」
 木陰から声がした。数間先の木の陰から姿を見せたのは利彦だった。どうして利彦がここにいるのだろう。
「すいやせん、さっき弥久と話しているのを聞いちまって。嘘くせぇけど、たまたまですよ。弥久の大声が聞こえて行ってみたら、内緒話をしていたから、つい」
苦笑し、ぺこりと頭を下げた。
「ああ、そうだったんですか。でも、どうしてここに?」
単なる見送り、ということはない気がする。
「これ、返しそびれたんで」
利彦が差し出したのは、昨夜、センが渡した手拭いだった。
「あ、忘れてました。ありがとうございます」
「まあ、手拭いだけじゃ流石に黙って出ていきてぇ人を見送りには来ないのはわかってるでしょうね……謝りたくて来たんだ」
利彦は頬を掻いた。
「謝るって、なにを」
「センさんがいなければ全部丸く収まるから消えろ、って言ったことだ。そんなわけねぇのにな。すまなかった」
 利彦が今度は深く頭を下げる。
「そんな、顔上げてください。俺がいない方が良いっていうのは、本当のことですから」
センには所詮、壊すことしかできない。
「違ぇんだ、センさんを除け者にしたいわけじゃない。むしろ、逆だ」
「逆?」
「酷ぇことばかり言っちまったけど、センさんには感謝してる」
利彦が笑う。口元を少し上げただけだけれど、清々しいそれは、たしかに笑みだった。
「ありがとう。センさんに会えなきゃ、俺はいつまでも踏ん切りがつかなかったと思う」
「それって」
「ああ、このあとハチロクに行く。自分で、壊してくる」
守りたかったものを自分の手で壊す、と利彦は言った。
「なんで」
信じられなかった。自分のせいなのか。
「きっと悲しむ奴も苦しむ奴も多いと思うけど、壊しちまった方が後々みんなで笑ってられるって思えたんだ。これは、センさんのおかげなんだ。だから、ありがとう」
 利彦はきれいな笑みを浮かべたまま言った。
(後になって、みんなで笑う)
狂環師もクルイも誰も彼も、みんなで笑う。そんな光景が頭をよぎる。それが本当にできたなら、とても素敵なことだ。
 利彦の出した答えが、素敵な結果になることを心から祈った。
 利彦が続ける。
「でも、だからこそ、勝手だけどセンさんには狂環師じゃないあいつだけお覚えていてほしい」
 結末を知らないで、ただ花のような姿を覚えていて。それは女に惚れた男の意地でもあり、背中を押してくれたセンに対する懇願。利彦の、まっすぐな想い。あいつとは、詠花のこと。狂環師の、詠花――。
(いや、違う)
センはにっこりと笑う。それでも脳裡に夜依の顔がちらりとかすめた。夜依は、悲しむだろうな。
「あんなに綺麗な人、俺、初めて見ました」
「好い女だろ、俺の女だ。惚れても無駄だぜ」
利彦もにやりと笑う。
「夕凪も良い娘(こ)ですよ」
「おう、ごちそうさん」
「いえいえ、こちらこそ」
軽口を叩いて、笑い合う。
「ったく、最後まで何も言わねぇってなら、センさんの方が、よっぽどだな。本当に何者なんだが。なにを、どこまで知っているんだ」
 細めた目でじっと見つめられる。
「俺は」
口を開いたところで、何と言おうとしたのだろう。
 ぎゃぁ、っと――センの思考を、後ろで悲鳴がぶった切る。
 どろりと纏わりつくような、厭な、感じ。
「そんな」
呟いた利彦の顔はセンの後ろの一点を見つめていた。
 センはふり返る。
 旅の商人風の男が腰を抜かしていた。
 ぶるぶると震え、男の前には破落戸がふたり、ぬっと立っている。
 昨夜見た男たちだ。
 ゆら、と。顔だけをこちらに向けた。にちゃりと不快な笑みを浮かべる口元と、白い目。
 黒目がない。クルイだ。
 クルイだ。
 鼓動が急に早くなる。
 破落戸のひとりが匕首を抜き放つ。腰を抜かしていた商人男は、ひっと声を漏らすと、這いながら大木戸の方へ逃げて行った。



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