愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*1  ||―ギル―

 頭の奥が痛い。目の前が明るくなったり、暗くなったり、定まらない。
 何か聞こえるが、何が聞こえるかはわからない。
 まだ眠い。まだ眠っていたい。
『セン』
と、声が聞こえた。心地よくて、懐かしい声。
「あ…………?」
うわ言のように、その人の名を呼んだ。
 このまま、眠っていよう。
「おい、起きろ」
「いででっ」
 センはかっと目を見開いて、必死でもがいた。誰かが、センの口の端を引っ張っている。
「ちょっ……痛っ」
肩に痛みが走る。
「ああ、これこれ、下手に動かしなさんな」
口を引っ張っていた手がどけられ、ぬっと老人の顔が現れた。目がぎょろりとした、つるっつるに禿げた頭のお爺さんだ。
「あ、あの、ここは?」
「亀戸屋じゃよ」
「亀戸屋?」
(なんで……)
 老爺が説明する。
「お前さんが助けた若い男が、ここの奉公人でなあ」
クルイが現れ騒然とした宿場内。人々は屋内へ、なるべく二階へと逃げた。亀戸屋の二階座敷もわらわらと人が溢れかえっていた。あまりにも人が溢れかえり、奉公人は雨戸を突き破って下に落ちてしまったらしかった。男の周りにいた者達がなんとか踏ん張り、雪崩のように続かなかったのが、不幸中の幸いだ。
「あの人、大丈夫でしたか?」
「おお、大したことないわい」
(よかった)
あのとき、センがクルイ相手に振るった棒きれば心張棒だったのかもしれない。
「まあ、そういうわけでの、亀戸屋のじいさんが恩を感じてお前さんの面倒をみるって言いだしたんだよ」
「いや、そんな」
 恩を感じられるようなことはしていない。返って迷惑をかけてしまった。
「おう、今さらじゃが、わしは医者じゃ」
老人は芳安(ほうあん)と名乗った。
「お前さんがなかなか目覚めないというから、様子を見にきたんじゃ」
 芳安がセンの手を取った。冷たくて、かさついた肌だ。
(!?)
手を引いたが、案外に芳安の力は強い。
「あの、なに」
芳安はぎょろりとセンを見た。
「脈をはかってるだけじゃわ、馬鹿もん……わしにその手の趣味は無い」
「あの、いや、そういうわけじゃ」
なんというか、突然の触られて驚いた。
「俺はどれくらい眠っていたんですか?」
「ほとんど丸一日だなあ。まあ、わしの見立てではもっと寝てると思ったがの。なかなか深い傷だったから」
(そんなに寝ていたのか)
「ありがとうございました、芳安先生」
寝たままの恰好で悪いが、センはぺこっと頭を下げた。
(かえって迷惑かけちゃったな、水色屋にも亀戸屋にも)
助けに行って倒れているのだから世話がない。
(でもなぁ)
 言い訳がましいが、まさか犬にひと噛みされたくらいで倒れるような体だとは思わなかった。軟弱になったのだろうか。
(酔ってたのもあるかもな)
滅多に飲まない酒を飲んで、急に酔いが回ったのかもしれない。これからは酒には気をつけようと心に決める。自然とため息が漏れた。
「お前さんは運が良かったの。水色屋の利彦が来てくれなかったら、今ごろ、喉がぱっくり千切れていただろうよ」
「利彦さんが……怪我なんかしていませんか?」
出しゃばって怪我をしたセンを助けるために利彦が怪我をしてしまったら、申しわけなくて合わす顔がない。
 芳安はふん、と鼻を鳴らす。
「お前さんほどじゃないわい」
利彦はかすり傷を負っただけらしい。それなのに、芳安の声は苦々しい。
「よかったです」
センがほっと息を付いて言っても、芳安の表情は苦虫をかみつぶしたままだ。
「お前さん、もう少し自分の身を案じたらどうかね」
「俺の怪我なんて、大したもんじゃないですから。きちんと手当てもしてもらったし」
 そっと左肩に触れてみる。鈍い痛みはあるが、そんなに深い傷じゃなさそうだし、他に傷もない。センの体ならこの程度の傷、数日でふさがる。
 ふと、芳安老人の視線に気づく。ぎょろりとした目を半眼にし、疑わしげにセンを見つめている。
「お前さんは、なんだね」
声は深く、静かだった。
(なに、って)
「『ハチロク』じゃないんだろう?」
「は、はい」
「じゃあ、何を守っている?」
「え?」
芳安はふうと、さも億劫そうに長息を吐いた。
「まあ勝手に見といてとやかく言われるのも嫌かもしれないけどなぁ、もう少し自分の身も考えておやり。じゃないと、その人が可哀想じゃ」
 話が見えない。首をひねる。
「何のことですか」
「体の傷痕のことじゃよ」
びくりと肩が震えた。芳安から目を逸らした。
「おかしな傷ばっかりだなぁ、と思った。どれも命取りになるようなもんばっかりじゃ。そんな傷がいくつもある奴ぁ見たことなかった」
言い訳をしようとしたが、やめた。声を出したって、まともな声になる気がしなかった。
「わけのわからん彫り物もしてあるが、雰囲気からいって、やくざや博打打ちってわけでもないだろう?」
「はい、まあ」
(気づかれた?)
「じゃあ、そんなにたくさん傷があるのは、守りたいものがある奴だけじゃねぇのかなって思ったわけじゃ。自分の命を投げ捨ててでも、守りたい人がいるのか?」
「そ、れは……」
やっぱり、声が掠れた。
 芳安老人は勘違いしている。
 センが大怪我ばかりしているのは、センが大怪我くらいじゃ死なないから。普通の人では死ぬような傷でも、センは死なない。だから、無理ができる。
 勘違いしたまま、芳安老人は続ける。
「でもなぁ、そんなのはやめておけ。お前さんが命懸けで守りたい人は、お前が傷つくのを何より悲しむじゃろうから」
(そんなんじゃ、ないんですよ)
心の中でだけ、言い返した。
 命を懸けて守りたい人はいる。目の前に守れる人がいるなら無理してでも、守らなくちゃいけない。傷ついてでも、守らなくちゃいけない。
(俺は、クルイだから……)
守るという行為だけが、せめて人に留めてくれる気がする。
 でもセンが命がけで助けたその人たちは、そこまでセンのことを想っていないだろう。
 なんだかとても悲しい――そう思ってしまうのは、たぶん弱さ。弱さを閉じ込めるように硬く両手を握り締めた。
 ふたりとも黙った。外の喧騒が聞こえてくるから音がないわけではないのに、それが返って静けさを際立たせる。
「そうだ、お前さんの目が覚めたことを水色屋にも伝えないといけないな」
 わざとらしく言うと芳安は立ち上がり、部屋を出ていった。
「すまんな。ただ、医者としてどうしても言っておきたかったんじゃ」
「いえ、あの、ありがとう、ございます」
うつむきながら答えるのが精いっぱいだった。
 ひとりになった部屋で、一筋涙をこぼす。
 外は先程よりも薄暗く、しずむ夕日の薄紫が、いっそう無性に、悲しくさせた。



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