愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



小弛みの水色*7  ||オダユミ ノ ミズイロ

 走る、走る、ざわめきのする方へ。
 目指すは宿場の入り口・木戸周辺。二つあるうち、センが夜依を助けた森の方だ。木戸を入った辺りは空き地になっていて、少し行ってから大通りと両側の店が始まる。
(今ならまだ、空き地で食い止められるかもしれない)
 店の木塀が並ぶ細道をひたすら駆ける。大通りの方が人の声も聞こえて状況が把握しやすいが、さっき詠花に連れられだいぶ奥まで来てしまったし、人の波に押されて全力で走れないかもしれない。
 クルイがいる。数も何のクルイかもわからないが、空気を介して伝わってくるざわめきからして、蝶や蜥蜴が一匹、二匹ということはないだろう。
 行かなきゃ、と思った。思う前に走っている。
(なんでだろ)
 だらだら流れる汗が首筋を伝う。もう日が暮れているのに、暑い。少しくらくらする程だ。
 和泉宿ほどの宿場町ならハチロクの人間も幾人か詰めているだろう。それでも、行かなきゃと思うのは、
(なんで、だろ……)
考え事をしながら走っていたからだろうか、何もないところで足がもつれた。
(う、えっ……っ)
 咄嗟に両手を前に出す、が、思っていた衝撃は来なかった。とん、と誰かに支えられる。
「え?」
誰かと思って前を見るが誰もいない。首をもう少し下にやると、真っ黒な、綺麗な髪が目に入る。黒髪がぐいっとセンの体を押し戻した。
 少年だった。髪よりさらに黒い双眸が感情なくセンを見つめている。真っ黒な単衣と袴を身にまとい、気を抜くと影にまぎれてしまいそう。センより頭ひとつほど小さいのに、よく倒れてきたセンを支えられたものだ。
「あの、ありがとう」
礼を言っても少年はじっとセンを見たまま。 
(なんだ、この子)
気まずくなってセンが一歩後ずさろうとした時になってようやく、
「邪魔」
と呟いた。
「え」
 一瞬頭が真っ白になるが、すぐに意味を理解する。センが行く手を阻んでいるのだ。謝ろうとした時、別の声が聞こえた。
「野々村っ! 誰がいた! 賊か! わしを守れよ、わしを守るのが貴様らの役目だ!」
老人の声だと思う。少年の後ろで、ちょうちんの灯りがいくつか、ぼんやり揺れている。
「いえ、ただの下賤の者でした」
野々村と呼ばれた少年が、大きくはないがよく通る声で答えた。
 ちょうちんの灯りがこちらに向かってくる。どんな人が来るのだろうとちょっと興味を持っていると、急に腹に鈍い衝撃が来た。
「か、は、っ」
少年が鳩尾に突きを入れてきたのだと、少し遅れて理解した。距離を取らなければと思ったが体が動かず、その場に崩れ落ちる。そのまま首の後ろを掴まれ、地面に顔を押し付けられた。頬に土の皿月を感じた。
「ちょ、なにをっ」
声をあげたセンを、少年は首を少し圧迫することで黙らせた。息苦しい。
(何者だよ、こいつ……ハチロクか?)
 耳元で少年が口早に囁く。
「わきまえろ、朝暮廷の勅使・権造林(ごんぞうばやし)さまのお通りだ」
少年は言い、センの頭を押さえ続ける。センの前を幾人もの人が通っていく。ちょうちんの光がぼんやりと道を照らし、また暗くなる。
 辺りが暗くなってからしばらくし、センは解放された。ふらつきながら立ち上がる。荒い呼吸をしずめるため、大きく息を吸った。
「はあ、びっくりした」
(この子は、露払いだったのか)
少年は立ち上がり、袴に付いたほこりを払っている。
「ハチロクかと思った……」
思わず呟いてから、まずいと気づく。案の定、少年はセンにちらりと視線を向けていた。
 言い訳をと思っている内に、少年は踵を返し、すっと暗闇の中に消えていった。
 センは少年が消えていった方を見つめる。もうどこにも気配を感じることはできない。代わりにざわめきを感じて、はっとする。
(そうだ、クルイ)
クルイの気配のする方へ駆けている途中だった。
 木戸を目指し再び走りはじめる。すぐに野々村という少年の顔は頭から消えた。


「な、んで」
 その状況を見たとき、真っ先にこの言葉が漏れた。
 犬だ、狸だ、兎だ。犬や狸や兎の、クルイ――ぱっと見ただけでは数が把握しきれないくらい、たくさん。
 木戸を入った空き地には、どこを見てもクルイが目に入らない場所はない。クルイは空き地を溢れ、洪水のように大通りを駆け巡る。人々は建物の中に逃げ、入りきらない人々は道を逃げまどい、手や足から血を流し呻き転がる男たちや、兎の死体も多く、犬狸の死体もいくつかある。
 でも、
(ハチロクは?)
ハチロクが、いない。木の棒や火吹き竹を持っている男たちはいるが、だれもかれも腰が引けている。明らかに素人だ。
「どうして……」
このままでは、どうなるのか。ひと通り暴れてクルイが去るのか、何かを傷つけ壊すまで帰らないのか、わからない。
 焦ってばかりで、同じことばかりがぐるぐる回る。どうすればいいのか、わからない。
「わあっ」
二、三間離れた所から、突然声が上がった。若い男が地面にうずくまっている。頭からは血。
 近くにいた犬のクルイが若男に牙を向ける。若男はその場から動けないでいる。
 センは駆け出す。
 獰猛に唸り、犬が男に飛びかかった。
 男と犬の距離が縮まり、触れる――寸前で、センは犬の体に体当たりをした。
 すぐ体勢を立て直し、若男を後ろにかばう。犬がセンを睨む。畜生ながら、殺意のみなぎった白目。だらだらと涎を垂らし、剥きだされた牙からは喉元を喰い千切ってやろうという気迫が伝わってくる。
 センは犬から目を話さず腰に手をやるが、刀がない。
(そうだった)
思わず舌打ちがこぼれる。
(こんなことなら……)
ウォンッ
 犬が吠え、飛びかかってきた。避けるわけにはいかない。
「くっそ」
思い切り犬の腹を蹴り上げる。自分も少しよろけた。一間(約一メートル八〇センチメートル)ほどぶっ飛んだ犬は、またすぐに向かってくる。
(だからクルイは)
 クルイは死ぬまで狂ってる。どんなに傷ついても、傷つけようとする。どんなに殺されそうになっても、殺そうとする。クルイは死ぬまで、狂うしかない。
 どこまでいってもなにも救えない存在が、クルイ。
(嫌いなんだ……)
 犬が再び向かってくるまでのほんのわずかな間、センは手を伸ばし細い木の棒を取った。飛びかかってきた犬に、したたかに打ち込む。頭が割れ、センの頬にも血飛沫が飛んだ。
 赤い牙口をめいっぱい広げる犬を、もう一度殴る。また来るかと思ったが、犬は震えながら尻を向け、ふらふら歩きだす。数歩進んで、倒れ、動かなくなった。
(まさか)
センは駆けより犬の死骸を確認する。夜の闇にまぎれて、目が闇に沈んでいる。黒目がある。
 ぞわり、とする。この犬は完全なクルイとなっていなかった。
 最期の最後で、怖がった。なんとも言えない嫌な気持ちだ。ぎゅっと手を握る。自分に、誰かに、言い訳する。
 やらなければ、やられる。
 気持ちを入れかえろ。現状ではクルイを殺す以外に術はないのだ。誰かが噛まれて大怪我をしたり死んだりしたら、そっちの方が大変だ……と、言い訳し、センは木棒を握り直した。
(こんなのでも、無いよりはましか)
 センが暗い気持ちになってから気を取り直すまでは、ほんの一瞬だった。ほんの一瞬の、確かな油断。
 気づいてふり返ったとき、目の前には牙に縁どられた闇が広がっていた。
 大きく口を開けた大きな犬だと気づく。体をひねる、が、遅かった。
 肩に牙が次々と食い込む。嫌な音、というか感触だ。そのまま大犬に押し倒される格好で地面に。頭を打つ。痛みはあまり、感じない。ただ体が重く、気が遠くなる。
「く、っそ」
体を動かさなければと思うのに、思うようにいかない。うまく頭が、回らない。
 犬がまた牙をむいた。ぽたりと落ちるのは、センの血だろうか。ここで今、死ぬわけにはいかないと思う。
 目の前が暗くなっていく。
(俺がこんな死に方したら、だって……)
 目の前が真っ暗になる。
 よくわからないまま、落ちた――。



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