愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



小弛みの水色*2  ||オダユミ ノ ミズイロ

 ぎぃ、ぎぃと床板が踏み鳴らされる。
(この音は……)
窓辺の壁に寄りかかり夢うつつにそう思ったとき、かくんと首が前に振れた。びくっと顔を上げると、向こうもちょっと目を見開いている。薄闇のなかに弥久が立っている。弥久があわてて言う。
「ごめんなさい、起こしちゃった」
「いや、ちょっと、うとうとしていただけだから」
センは首の後ろを掻いて笑う。弥久は風呂上がりだ。奉公人は最後に風呂に入ることになっていて、水色屋の場合、奉公人が風呂からあがる頃には眠りについている客が多い。
 弥久は片足を引き、センの前に腰を下ろした。
 センは弥久と同じ部屋で寝起きしている。センは他の奉公人と同じ部屋に置いてもらえれば良いと言ったのだが、源衛はそんなことはできませんと言い、元の部屋をあてがおうとした。どちらも悪いからと言って譲らず、そこへお澄が来て、弥久をセンの部屋へやることで話がまとまった。弥久は夜依の兄であるし、年も近いからだ。
「ねえ、センさん」
弥久が声をかけてきた。
「何を話していたんですか、朝」
「え?」
「利兄ぃと旦那さまと三人で話してたでしょ、薪割り小屋の前で。利兄ぃがあんな楽しそうな顔をするなんて珍しいから」
「ああ。あれは、よくわかんないんだけど……」
(ほんと、なんだったんだろ)
ふむ、と考えはじめたがてんで見当がつかない。利彦と源衛はどうして笑っていたんだろう。考え込みそうになった時、ふと弥久の視線に気づいた。じっと無表情でセンを見つめている。ぽつりと、弥久。
「やっぱ、かっこいいなぁ」
「は?」
 弥久は、よっよっとセンの横に移動してくると、同じように壁にもたれた。弥久の座り方は、片膝を立て、右足は伸ばしたままの座り方だった。右足が思うように曲がらないのだということは、しばらく一緒にいてわかった。
「センさんは、不思議な人だよ。好い男なのに嫌みじゃない、それで、刀を持たせても大層強いんだろう? そんな男がもてない道理はないわなあ」
少し口をとがらせて言う弥久は、少し幼く見えた。
「俺、そんなにもてないよ」
「またまたあ。あのな、センさん、もてる男ぁもてるって言い切っていた方が良いぜ、そうじゃないと、返って嫌味ったらしいってもんだよ」
同じ部屋で歳が近いこともあって、弥久とはお互い、かなり打ち解けた口調で話すことができるようになった。
「そう言われても、本当に……だって俺、ずっと、人と関わらないように生きてきたから」
少し、笑ってしまった。
 ずっと人と関わらないように生きてきた。ずっと逃げてきた。それではいけないと思ったから、今、ここにいる。
「あ、ごめん。余計なことを聞いた」
「いや、気にしないで。俺さ、弥久さんとこうして話せてすごくうれしいんだよ、友達みたいっていうのかな、こういうの。俺、そういう人、いなかったから」
「友達みたい、ねぇ」
 弥久は苦笑して、頬を掻いている。
「弥久さん?」
「俺はさ、センさんのこと友達だと思ってんだけどさ、どうだろう……って、ね?」
最後の方、弥久は自分の左膝に顔をうずめてしまった。耳たぶが赤く染まっている。
(俺が、友達……)
信じられなかった。自分のような曖昧な存在に友ができるなんて。さっき弥久のことを友達みたいだと言ったのは、そういうわけであって、
「お、俺も弥久さんのこと、友達って言えたら良いなって思ってはいるんだけど、でも良いのかなって思って」
「なんだ、それ」
弥久は顔を上げ、不思議そうにセンを見つめた。
「俺ね、傷持ちなんだよ、実は」
脛を叩いて茶化した。茶化してはいるが、後ろ暗いことがあるのは本当。
(だって俺は、クルイだから……友達なんて、いちゃいけない)
「弥久さんは俺なんか相手しなくても、友達たくさんいるでしょう」
だからこれ以上、構わないで。
 センは恐いのだと思う。人と関わっていこうと決めたけれど、それはあくまで表面だけの関係で良い。優しくされたり、友達になったりしたら、堪えられない。
(結局俺は、留まってはいられないから)
築いた親交も友情もすべて断ち切っていくしかないなら、最初からそんなもの要らない。そうしないと、センが堪えられない。
「そういうことじゃ、ないんだよ。センさん」
 弥久の声はひどく落ち着いていた。ちらりと見ると、弥久は伏し目がちに微笑んでいる。静かなその表情はとても大人びて見えた。
「昔のことは、関係ないんだ。俺は今のセンさんと友達になったんだから、友達になりたいんだから……俺、そんなに悲しそうな顔で笑う人初めて見たよ。後悔、してるんだろ」
思わずびくりと肩が震えた。その肩を支えてくれるように、弥久がセンに触れた。
「仕方ないとは言わないよ、もちろん。でも、センさんは自分のやったことを後悔してるから、自分を壊してしまうほど、自分を責めなくても良いと、思うな」
「でも、俺、」
センの言葉をさえぎって、弥久が続ける。うす暗い辺りの中でも、一際、すっと弥久の瞳が暗い。
「それに俺さぁ、全然友達いないぜ」
 急にいつもの調子に戻ると、弥久は大仰にため息をつき天井を見上げた。センもつられて聞き返した。
「え、そうなの。どうして」
「うん、そうそう。俺さ、こんな足だろ? だから憐れむような目で見られることの方が多くてさ、会ったときから対等な場所にいないんだよ、これが、なかなか。水色屋の人たちは俺のことをちゃんと見てくれているけどさ、友達って人はなあ。利兄ぃは兄ちゃんみたいな感じだし」
笑って話しているのに、弥久の横顔はどこか悲しそうに見えた。もしかしたらさっきのセンの笑みも同じように見えていたのかもしれない。
「センさんは俺の足のこと気にしないでいてくれるだろ?」
それが嬉しい、と弥久が笑いかけてきた。
 弥久は右足が不自由だというのは初めて会ったときからわかっていた。でも初めて会ったときは夜依のことがあり、気にするどころではなかった。次に会ったのは弥久が夕飯を持ってきてくれた時だったが、そこでも足のことを気にする暇なんてないくらい料理がおいしかったから、なにも思わなかった。
「だって弥久さん、あんな美味い料理を作れるじゃん、すごいよね。そんな弥久さんに憐れむ必要なんてないじゃない?」
弥久が目を丸くし、徐々に笑みに変わっていく。
「うれしいこと言ってくれるね、センさん。本当に不思議な人だ。難しいことを平気でやってのけちまうんだから」
 また弥久は抱えた膝に顔をうずめた。
「センさんみたいな人だったら、仮にハチロクでも、良かったのにな」
呟くよりも小さい声。吐息に乗せた言葉が、気になった。ハチロク。
「弥久さんは、どうしてハチロクが嫌いなの?」
「嫌いっていうか、恐いんだ」
(恐い?)
なぜ弥久のような人がハチロクを恐れる必要があるのだろう。
「俺の父親はハチロクだった」
「え」
弥久は浴衣をめくり、右足を夜気にさらした。
(……っ!)
「……それ」
 ひどい傷跡だった。夜目にもわかる、膝を縦に切り裂く傷跡。ぼこりと皮ふが盛り上がり、周りの肌とも引きつらせている。青白い月光に照らされた肌も同じくらい青白く、それは死人(しびと)を思わせた。弥久が笑う。乾ききっているのに、悲しい、笑み。
「これ、俺の父親がやったんだ」
どこかで聞いた話だな、と何故か他人事のように、己と重ねた。
「ひどい父親でさ、俺らのことろくに育てもしねぇで、いつも酒飲んでた。夜依が生まれてすぐに母ちゃんが死んで、もっとひどくなって。俺だけでなく夜依のことまで殴るようになってさ」
軽い口調だけれど、弥久の手が微かに震えいる。
「ある日、父ちゃんが酔った勢いで俺の膝を斬ったんだ。そん時わかった、逃げなきゃ俺も夜依も殺されるって。夜依が、夜依が殺される、って……っ」
 ついに堪えられなくなったのか、弥久はうつむき震えだした。弥久が見せた乾いた笑みも軽い口調もすべて、苦しみや辛さを隠すためだったのかもしれない。センは一瞬迷ってから、弥久の頭を撫でた。見るからに柔らかそうな少し明るい色の髪は、まだ少し濡れていた。
 弥久の肩が大きく上下する。大きく息を吸って、吐いて。弥久は顔を上げた。
「ごめん、ありがと。父親の所から、それで逃げてきて、ぶっ倒れたところを旦那さまに拾われたってわけ」
「あの、無理に話してくれなくても」
「いや、こういうことは、過ぎた悲しいことは、ぱぁっと話して笑うのが一番なんだ」
そういうものなのだろうか。
 弥久はもう一度大きく息を吸った。
「ある意味、父親が酔っててくれて良かったよ、俺のこと斬りつけた後、何ごともなかったようにいびきかき始めたからな。血まみれで転げまわっている俺の、目の前で。もし“しらふ”で俺のことを殺そうとしていたなら、簡単に殺されちまってただろうから」
 弥久の父親はハチロクだった。そして弥久はその父親に殺されそうになった。
「弥久さんがハチロクを嫌うのも無理ないね、やっとわかった」
幼い頃の記憶から、ハチロクという存在をすべて父親に結び付けてしまっているのかもしれない。
 ひとりで納得しようとしたセンに、弥久が首を振る。
「いや、父親のことも含めてハチロクを嫌ってるっていうのとは違うんだ、恨んでいるっていうのも違う」
「え、父親を、恨んでいない?」
「ああ。まあ父親のことは嫌いだけどさ。俺は今幸せだから、恨んではいない」
「それって、どういう」
弥久は宙を眺め、答えに合う言葉を探しているらしかった。少ししてから話し始める。
「もし俺の父親が大酒のみじゃなくて子供を斬るような人でなしじゃなかったら、今俺はここにいないだろ。旦那さまにも女将さんにも利兄ぃにも誰にも会えなくて、ましてや包丁も握ったことがなかったかもしれない」
まあ、父親がまともだったら違う幸せの中に暮らしていたかもしれないけど、と笑う弥久の笑顔が、少し湿っぽかった。
 わずかに、無音の時がかすめた。
 さっきより少し濃くなった夜。生温い風が窓から吹き込む。耳元で蚊の飛ぶ音がした。
「あー、ごめん、センさんに愚痴言った、俺。寝る、おやすみっ!」
 弥久は早口で言うと、ごろんと床に寝転がった。
「おやすみ」
 弥久は父親を恨んでいないという。自分の人生を狂わせた人を、恨んでいない。
(千花……)
センにとってのその人を、心の中で呼んでみる。
(俺は、貴女のことを、恨んでる……?)
わからない。わからないけれど、恨んでいないのかもしれないけれど、殺してしまうかもしれない。だって、そうしないとセンは人に戻れないのだから。
 どうやったら弥久のように考えられるのだろう。
 狂わされたおかげで、今の幸せにめぐり合えたのだと、どうしたら考えられるのだろう。
(俺がクルイになったからめぐり合えたもの、か)
ふいにある娘のことが頭をよぎる。センを待ってくれている人。夕凪。
「よくわからないよ、俺には」
呟いたが弥久の返事はなかった。弥久は朝が早い。センのように中途半端に働いていられる身分ではないのだ。
 センはぼんやりと窓の外の月を眺める。
(千花、貴女が俺をクルイにしたことに意味はあったのかな)



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