愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



瀬切りの和泉*7  ||セギリ ノ イズミ

 もう一度大きく息を吸い、目を開ける。
「よしっ」
頬を叩いき気合を入れると、部屋を出て宿屋の土間に向かう。
 もう宿全体に活気があふれている。草鞋の縄を結び、もう旅立つ者が多い。歩いて次の宿場まで行かないといけないし夜はクルイが出やすいから、なるたけ早く宿場を出て次の宿場に到着しなければいけないのだ。
「あ、センさん」
「夜依ちゃん、おはよう」
 呼ばれてふり返ると夜依がたすき掛けをし、水の入った桶を抱えていた。額にうっすらと浮かんでいる。
「足はもう大丈夫なの」
着物の裾からのぞく足首には白い布が巻かれている。
 夜依がにっこり笑う。
「はい、一晩ゆっくり休ませてもらったら、すっかり。昨日は本当にありがとうございました」
「そう、よかった。でも、ほら」
センは夜依の手から水の入った桶を取り上げる。センが持っても結構重い。
「センさんっ!?」
夜依が慌てて桶を取り戻そうとするが、センは桶を高く掲げて拒む。

「重いね、これ。いつもこんなの運んでいるなんて、夜依ちゃんすごいね」
「いつもやっていることですから、すみません、返してください。センさんに持ってもらうような物じゃありませんから」
「どこに運ぶの。怪我しているんだから、運んであげるよ」
 言うより早く、歩きだす。どこに持っていくかわからないが、夜依は湯場で働いていると言っていたから、湯場の方へ。問答するセンと夜依を何ごとかと見ていた他の数人の客の視線が元に戻っていく。
「あの、ありがとうございます」
 後ろをついてきた。夜依が少しうつむき小声で言った。
「これくらい平気、なんてことないよ。どこに持っていくの」
「……湯場です」
「うん、わかった」
夜依に笑いかけて、湯場を目指す。
「ここまでで、いいかな」
女湯の入り口に桶を置き、さすがに女湯の中に入るわけにはいかない。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、夜依が中に入っていった。
 センも宿の方へ踵を返す。
「夜依ちゃんとお梅さんには会ったから、あとは弥久さんと、源衛さんとお澄さんには挨拶しないと」
指を折り、別れを告げる人を数え上げる。
(利彦さんは……)
結局最後まで、話を聞く機会はなかった。刀のことを疑わなかったでは、ない。けれど、仮に利彦がハチロクで、センの刀を盗んだにしても無防備なセンを殺さなかった理由がわからない。かと言って、利彦が単なるこそ泥を働くとは思えない。
(まあ、刀がなくなった以外、俺にも宿の人にも害がなかったんだから、いいか)
 刀のことは、諦めた。ならば。これ以上ここにいる理由がない。
「あ、センさん! おはようございます」
宿屋の喧騒の中に戻ると、弥久が笑いながら声をかけてきた。
(……爽やかだな)
なんというか、きらっきらしている。センよりひとつ年上なのに、何だか若い。育ちの違いだろうか。
「弥久さん、おはよう」
センは弥久に駆け寄った。
「センさん、良く眠れましたか」
「あ、はい……あの」
「なんです」
きらり、と弥久の瞳が光った。口元には笑み。センは軽く息を吸う。
「あの、出発する前に源衛さんと女将さんに挨拶したいんですけど、今大丈夫ですか」
 夜依を少し助けたくらいで、ここまで良くしてもらったのだ。挨拶ひとつなしに立ち去るのは気が引けた。
「……センさん、行っちゃうんですか、もう」
弥久が目を見開き、呟いた。
「弥久さん?」
声をかけた途端、弥久の目の焦点が定まる。
「あ、だって、センさん、もっといてくれませんか。俺、まだセンさんに食べてほしいものいっぱいあるから、その」
あまりにも残念そうに弥久が言うので、何だか申しわけなくなる。
「昨日の晩だけでも十分です、本当においしかった」
「どうも……センさんにも都合がありますよね」
言い終わるより早く弥久は直ぐ近くにいた丁稚に声をかけ、源衛たちにセンの出発を伝えた。
 弥久がしょんぼりと黙り込み、沈黙が落ちる。周りの喧騒がより、センと弥久の間の“だんまり”を際立たせる。耐えられなくなってセンは、夜依の様子を話題に出した。
「夜依ちゃん、元気になったみたいで良かったです」
「あ、はい、本当にありがとうございました」
(なんか反応薄いな……夜依ちゃんのことなのに)
もの思いに耽っているような、心配事があるような、どこかぼんやりしている。
 声をかけようか否か躊躇し、よし声をかけようと口を開く――その一瞬前。弥久がふと真顔でセンを見た。
「センさん」
「な、何です」
弥久の視線が、センの顔から腰そしてまた顔に戻った。体が熱くなり、すぐにひやりとする。
(まずい)
「刀はどうしたんです?」
「え、あの」
とりあえず笑みを浮かべる。
「あります、あります、大丈夫ですから。部屋に忘れたのかな、はは」
首の後ろを掻いてみたが、あまりにもわざとらしすぎた気がする。
 弥久の眉間が訝しげにひそめられる。困惑したように視線を左右にめぐらせ、センから逸らした後、弥久はセンの耳元に顔を近づけた。
「もしかして、盗まれたんじゃあ、ないでしょうね」
弥久としては小声で言ったつもりなのだろうが、思いのほか弥久の言葉は大きな力をもってその場に広がった。
 しん、と喧騒が静まり、宿の者や他の客の視線がふたりに向けられる。
(まずい)
どうすれば良いのかわからず、頭の中が真っ白になる。弥久は険しい目つきでセンを見つめていて、この場を動こうとしない。こんな人の多いところで問わなくても良いのに、と責めたくなってしまう。
 数拍、場が固まり、
「弥久、センさん」
お澄がにっこりとしながら声をかけてきた。
「センさん、おはようございます」
「あ、はい」
お澄はにっこりしたまま続ける。穏やかで春の陽気を思わせる笑み、周囲のとげとげしい空気を溶かしていく。センたちに集まっていた視線が、朝の忙しなさの中に戻っていく。
「わたしたちも、もう一度センさんにお礼を言いたいと思っていたんですよ、さ、奥へどうぞ」
 お澄はどうやら弥久の発言を聞いていないらしい。返って都合が良いと思いセンは黙って後に従う。
「弥久もいらっしゃい」
「はい」
あくまで穏やかに微笑み、お澄は歩いていく。宿屋の部分を通り越し、昨日も通された部屋に辿り着いた。
 部屋には既に源衛が座っていた。センを認めると、おはようございますと挨拶してきた。センは源衛と向かい合い座る。お澄も源衛の少し後ろに座り、弥久はセンの少し後ろに座った。
(このまま乗りきるしかない)
内心冷や汗をかきながら、表面では笑う。
 源衛とお澄はセンの刀が盗まれたことを知らない。もし弥久が「盗まれたかもしれない」と言ってもきちんと否定して、すぐさま宿を発とう。腰に差しているものがないのだから嘘をつくにも分が悪いが、騒ぎを大きくしたくない。



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