愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



瀬切りの和泉*6  ||セギリ ノ イズミ

 その後、お梅が来て風呂に案内してくれた。弥久と話していたため客が風呂に入る時間を過ぎてしまったらしいが、返ってセンは一人の方が背中を見られる心配がなくてほっとする。
 センを案内するとお梅はすぐに引き返して宿に戻った。湯場は独立したひとつの建物だ。立ち止まって、見上げる。
(宿屋の風呂場っていう規模じゃないな、普通の湯屋みたいだ)
番台を真ん中とし、男湯と女湯の入り口がある。
 男と書かれた暖簾をくぐると、もんとすえた様な臭いがした。歩き通して和泉宿についた汗まみれの男たちが入った後なのだから当然だろう、しかも季節は夏だ。ぼんやりした月明かりが格子窓から差し込む。
(へえ、湯屋の中って、こうなっているんだ)
 センは今まで湯屋に入ったことがない。第一の理由は背中の傷と刺青をあまり大勢に見られたくないからで、ふたつめはただただ金の問題だ。脱いだ着物を入れる棚があり、続いて洗い場。脱衣場と洗い場の間は竹すのこで区切られている。
(あれが柘榴口ってやつか)
湯船と洗い場の間に薄い壁を設けて、湯の温度が下がるのを防ぐためらしい。暗い湯場の中、さらに黒くぽっかりと口を開けている。
 柘榴口というものをくぐってみたい気もするが、お梅によると人の入り終わった後の湯船と言うのは酷いあり様らしい。泥水の色をわからなくさせるためにも柘榴口は良いのだという、嘘か本当かわからないことを言っていた。真っ暗先の柘榴口を一瞥し、苦笑する。
「ああ言われたら、湯に浸かる気にはなれないよなあ」
 センは着物を脱いで洗い場の隅にいく。洗い場の隅には綺麗なお湯の入った大きな木桶がある。お梅に教えてもらった。岡湯といって本当は湯船を出た後に仕上げとして浴びるものらしい。桶で湯をすくう。だいぶぬるくなっているが、今は夏だ、風邪を引くような季節でもない。
 センは手ぬぐいを濡らし全身を拭く。最後に湯をかけ、もう一度体を拭いた。烏の行水とは、このことだ。
(あんま長居していると、店の人が来るかもしれないもんな)
 早々に風呂を出る。
 夜風が涼しい、と言いたいが相変わらずべたつく生温かい風だ。空を見上げると、潤んだような月が空に浮かんでいた。
 湯場を出ると、宿の者とすれ違った。センの顔を覚えているのか、深く頭を下げていった。
 部屋に戻ると刀を抱え、壁に寄りかかる。そのまま目を閉じて眠りにつく、これが普段のセンの眠り方だ。野宿が多い追われる身では、必然、こういう形になる。一人部屋とはいえ、宿屋は色々な人間が入り混じる場所だ、用心しなければいけない。
 水色屋が、宿場全体が夕に比べると、ぐっと静かになっている。朝早く出発する者も多いから、寝るのも早いのだろう。
「俺も、寝よう」
そう言った声はもう半分、まどろんでいる。
 刀をさらに握りしめて、目を閉じる。
 元々暗いから物はよく見えなかったが目を閉じた目の前にあるのは真の暗闇。眠いはずなのに、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていく。水の匂いがする。蛙の鳴く声が聞こえる。首筋を汗だか風呂の湯だかが伝っていく。
 鋭利な臆病さが広がって広がって、限界まで広がったところでほっと息をつく。
 怪しい気配は感じない。
 いつもの野宿だと大体、獣やクルイや無頼漢のような何かしらの気配を感じるが今夜はそれがない。何の危険もなく眠りにつける、それがこんなに安心できることだというのを、久々に思い出した。
 急に体から力が抜ける。ずる、と刀を抱えていた手が下に落ちる。刀だけはしっかり持っていなくては、と思ったのだが体は動かず、センはそのまま、泥沼のような抗いがたい眠気に身を任せた。
 ――――――――――。
 ぎっ、ぎっ、ぎっ。
 誰かの足音が聞こえた、気がしたけど、よくわからない。少しだけ眠りから醒めたセンを柔らかい布が包んでいる。ぎゅっと端を握り抱きしめる。
 眠い、と再び思う前にセンは深い眠りに落ちていた。


 センは目を開けた。体を起こし、辺りを見回す。寝起きは良い方だ、もうすっかり目が覚めている。日の出直後だろうが、すでに慌ただしい気配が感じられる。宿場の朝は早い。
「よく寝たなあ」
独りごちり、“伸び”をする。骨が小気味良く鳴り、気持ちいい。
 腕を下ろし、下ろした手先に何もない。
(あれ?)
辺りを手探るがそれはなく、ようやくセンは下を見た。目で確認する、が、ない。じわ、と胸の奥に重いものがこみ上げてくる。
(いや、あるはずだ)
 センは立ち上がり、体にかけられていた布をばたばたとはたいた。
「ん?」
(布?)
何気なく手に持っていたが、それは薄い布団だった。部屋の隅にあったのは知っていたが、センは使わずに寝たはずだ。誰かがかけてくれたのだろうか。覚えていない。
 センの中の不安がひとつ、確信へと歩を進める。
「ちっ、くそっ」
(油断しすぎだろ、俺)
センにかけられていた布団――センが知らない間に、誰かがセンに近づいたということ。
 センは苛々して布団を壁に投げつけた。窓からうっすら差し込む朝日が舞うほこりを煌めかす。一見きれいとも思えるそれが、今は腹立たしい。たぶん簡単に安心し、油断した自分に対して怒っているのだし、情けないのだと思う。
 一人部屋だからといって、宿の人々が良い人だからといって、利彦がハチロクである疑いが薄くなったからといって、眠る前に怪しい気配がなかったからといって――油断しすぎた。
「馬鹿野郎が」
 刀がなくなっていた。
 誰かに持っていかれたとしか考えられない。舌打ちしたとき、部屋の外から声をかけられる。
「センさん、どうしたんです?」
(お梅さんだ)
体がこわばる。平静を装って返事をしなければならないが、声が出ない。何といえば良いのかわからない。平静を装える程度の動揺ではないのだ。刀が、無くなったのだから。
「センさん、入るよ」
 返事のないセンを不審に思ったのか、お梅はばっと襖を開けた。たすき掛けにしたお梅が部屋の中に入ってくる。他人の存在が、少しだけ思考を冷静にさせる。
「どうしたんです、なにかあったのかい?」
「あ、いえ、おはようございます。なんでもないです」
咄嗟に作った笑顔が、どうも強張っている気がしてならない。
「そうですか、それならいいんだけどさ、穏やかじゃない言葉が聞こえたからさ」
さっきセンが「馬鹿野郎が」と自らを罵った言葉を聞かれていたらしい。ひやりとしたが、あくまで表面上は笑顔で。
「あ、ああ、ちょっと、嫌な夢を見て」
「なあんだ、そうなの」
 お梅は大きく頷くと部屋を出ていった。朝だから忙しいのだろう。
 センは一息ついたが、すぐに一息ついている場合ではないことを思い出す。
(くそ、どうすっかな)
乱暴に髪をかきむしり、今度はため息が口をついた。体に力が入らず、ぺたりと床に座り込む。
 あの刀は、十年前、千花が残した唯一のものだ。センを狂わし、『人に戻りたいならわたしを殺しなさい』という言葉を残し消えた姉。どういう形であれ、姉弟をつないでいた一縷。手元を離れて良いものであるはずがない。
 だが、だからといって、下手に騒ぐわけにはいかない。
 夜依を助けたことを感謝されこの宿に泊まった。一晩寝て目覚めると刀がなくなっている。そこで、センが騒いで誰が一番怪しいか。センだ。優位な立場にあるのを利用し宿から金をせしめようとしていると思われるかもしれない。もしかしたら番屋へしょっ引かれる。
(それになぁ)
 刀がなくなったと騒げば、水色屋に迷惑をかけることになってしまう。商家では、信用が大切だろう。寝ているうちに物が無くなってしまう宿屋などと噂が立っては申しわけなさすぎる。それでなくとも一晩泊まらせてもらったというのに。
 刀がなくなったのは結局、自分の責任。
 センは目をつぶり、大きく息を吸う。喧騒が聞こえる。瞼を透して朝日を感じる。
(大丈夫、形がなくなっても、大丈夫)
刀がなければ千花に会えないわけじゃない。悲しむことじゃない。泣きたくなるのはおかしい。感情に呑まれそうになる心に、言い聞かせる。
 大丈夫、まだ繋がっているから。



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