愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



瀬切りの和泉*5  ||セギリ ノ イズミ

「センさんは、随分強いそうですね、夜依に聞きました。ハチロクじゃないにしても用心棒か何かをされているんですか」
 弥久が聞いてきた。興味深そうに目を輝かせセンを見ている。露骨に物事を聞かれるのは嫌じゃないし、むしろ助かるが、なんというか緊張する。
「え、と。いや、強くなんかないですよ。夜依ちゃんが何を言ったか分からないですけど」
「そうなんですか、もしよければ色々な話を聞きたかったなぁ。熊を素手で倒したりできるのかと」
心底しょんぼり言う弥久に、思わず噴き出す。弥久の顔がほのかに赤く染まった。
「う、あ。センさん、失礼しました。俺強い人に憧れてて……こンな足だから。さすがに素手で熊は無理か」
弥久の言葉を聞き、笑いが引っ込む。そうだ、弥久は足を引きずっていた。怪我をしているのかと思っていたが、今の口調だとそうではないらしい。
 しん、と落ちる静けさ。気まずい。何か言わなければと考えているところに、ちょうどある人物の姿が浮かんだ。
「強い人といえば、この宿にも強そうな人がいますよね。さっきちらっと見たんだけど」
「強そうな人?」
弥久がきょとんとした。いささか無理矢理過ぎただろうか。
「えーと、坊主頭で日焼けした、がっしりした人……ここの人じゃ、ないのかな」
 嫌な予感が募る。弥久が知らないと言うのなら、あの男がハチロクの追手である可能性はますます大きくなる、気がする。
「背は弥久さんと同じくらいで」
歳は三十手前くらいか。そして、森の中でセンに敵意を向けていた。
(さすがにそこは言わないけど)
あまり多くの特徴を言うと、変に思われる。
 どくんどくんと波打つ己の心音を聞き、センはじっと――だけれど何気なくを装い――弥久を見ていた。
 弥久が急にぱっと目を見開いた。
「利兄(としに)ぃのことかな」
「利兄ぃ?」
弥久は笑う。
「うん、きっと利兄ぃ、利彦(としひこ)さんだ。きりっとした目の、若いのにやけに貫禄みたいのがある人じゃなかったですか」
「あ、ああ、そう、かも」
若いのに貫禄があるとは、的を射た言葉だ。
「利彦さんは、うちの男湯場頭をしている人ですよ」
「湯場頭ってことば、ここには長く?」
「はい、うちは全体、若いのが多いンで、利兄ぃは歳の割に古株なんですよ。うーんと、十歳の時から働いてるって言ってて今二十六だから……十六年?」
(そんなに居るのか……なら、ハチロクじゃないか)
少しほっとする。
 でも新たに疑念が浮かんでくる。
「利彦さんは本当にただの湯場頭ですか? 俺なんかよりずっと強いように見えたけど。あ、いえ、ちょっとしか見ていないから、よくわからないけど」
あまり利彦のことを探っていると思われるのはまずい。
「……よく、見てますね」
弥久がまじまじとセンを見た。
「やっぱりセンさんはすごい人だ」
「え」
 ぽつりと呟いてから弥久は、すぐににっこりと笑った。
「利彦さんが、どうかしました?」
「え、いや……」
森の中で見たというのはまずい気がした。
「さっき薪場でちらっと見て、ちょっと気になっただけです」
 ちらりと見ただけと言うわりに利彦に対して色々聞きすぎてはいないか、弥久に変に思われないか、とどきどきしていたが杞憂に終わり弥久はすぐに利彦の話を離れた。
「ところで、センさんは和泉宿にはどれ位いられますか」
(おかしな質問だな)
普通、宿場や宿屋というのは長居するものではない。湯治場・宿なら別だが、夜寝て朝起きたら次の宿を目指して出立するのだ。
「明日には、出ますけど」
首をひねりつつ言うと、弥久が残念そうに目じりを下げる。
「もう少しいてくださいよお、俺、センさんに食べてもらおうって思って、いろいろ考えてンのに」
「いや、そこまでしてもらうわけにはいかないですよ」
夜依を助けられたのは嬉しいし、弥久やお澄たちの感謝もわかる。けれど、センとしてはそこまでしてもらうことではないのだ。利彦の姿を見なければ、今夜泊めてもらうことすらなかったはずだ。
「そう、ですか」
 どこかぼんやり弥久が言った。下に落としていた視線をすっとセンに合わせると、わずかにはっきりした口調で、
「あの、もし良かったら、センさんの旅の目的っていうか、理由っていうのを聞いてもいいですか……見たところ商人でもなさそうだし、かといって、ハチロクや用心棒でも、ないんでしょう?」
と聞いてきた。
 ひやりとする。探りを入れすぎただろうか。浅く息を吸い、吐く。
(こうなったら、正直に言った方が良いかもしれない)
きっと夜依や弥久、源衛はセンに対して正直に向き合ってくれている。そんな相手に、腹に抱えたことを隠して知りたい情報を得ようというのは、卑怯ではないか。センは、そんな人になりたくない。
 もう一度、浅く息を吸い、吐いて。弥久の目をまっすぐに見つめる。その目はあまりに真剣過ぎたのだろうか、弥久がたじろいで目を少し逸らした。センは言う。
「俺は、人を探して旅をしているんです」
「人を?」
やや掠れ気味に弥久が繰り返す。センはゆっくり大きく頷く。
「千花という人を、知りませんか」
「女の人、ですよね。どんな人ですか」
弥久は居住まいを正し、半歩センに膝を寄せた。
 千花のことを、思い出す。
「歳は二十八で、でも見た目は若いのか老けているのかちょっとわからないです。長いこと会っていないから。優しい人で、それで……」
これではほとんど見た目がわからないではないか。そう思うけれど、あまり思い出せない。夢で見る千花の顔はいつも曖昧で、ただ優しいという印象だけを深くセンに植えつける。
「何をしている人ですか」
「え、っと」
狂環師――などと答えられるわけもなく、どうしようかと考えるが頭が真っ白になる。良い答えが浮かんでこない。
 弥久の目がはっと見開かれ、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、聞きすぎちゃいました」
「あ、いえ、すみません」
「悪いけど、俺はそういう人は知らないなあ。店の他の者にも聞いてみましょうか」
「お願いします」
と言ってから、己の言葉を悔いる。
 この宿には、利彦がいる。
(まあ、言っちゃったものは仕方ないか。明日ここを出るんだ、最悪、伝わっても逃げられる)
そもそも、利彦が本当にハチロクの人間なら、センのことなどとうに気づいているだろう。森でセンに、あれだけの敵意を向けてきたのだから。
(あれ?)
あの敵意は、利彦がセンを知っているハチロクであるなら説明がつく。でも、もし、ハチロクじゃなかったら?
(利彦さんは、何なんだ――)
「あの、センさん」
 センの考えをさえぎるように、弥久が声をかけてくる。弥久の座り方は、不自由な右足を投げ出し、左足も正座を崩したような一見だらしなく見えるものだが、腿の上で固く握られた拳が、弥久の誠実さを表している。
「その、千花さんというのは、センさんにとってどういう人、何ですか」
「千花は、」
姉さんと言おうとして、ためらう。利彦の姿が、頭の中をかすめた。意味のないことかもしれないが、これ以上千花に関することは言わない方が良いかもしれない。利彦がセンを標的と決めあぐねているなら、とわずかな望みをつないでおく。確信を持たせる情報は与えられない。
「千花は、大切な人です、本当に、大切な」
今でも大切で、会いたくて会いたくて、たまらない人。
「そうですか、わかりました。大切な、人、ですよね」
 また、どこかぼんやりした口調で言い、弥久はすぐに表情を改める。
「夕飯、口に合いました?」
「え、ああ、はい。とってもおいしかったです」
「よかった」
心底嬉しそうに笑う。目じりが下がり、頬が少し上気する。自分より年上の男に言うのも変だが、可愛らしい笑顔だ。
「明日の仕込みがあるんでこれで失礼します」
ぺっこり頭を下げ膳を抱えると、弥久は部屋を出ていこうとする。
「持ちますよ」
足の悪い弥久に膳を持たせるのは悪い気がした。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます。おやすみなさい」
「あ、おやすみなさい」
弥久が部屋を出ていった。
 おやすみと言うには少し早いんじゃないかと思ったが、ふと外を見ると日はとうに落ち、薄暗闇が辺りを包んでいた。店々の灯した提灯や中から漏れる明かりが、通りをほのかに照らしている。



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