愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



瀬切りの和泉*3  ||セギリ ノ イズミ

「いつまで店の前に恩人を立たせておくつもりだね」
 新たな声が店の中から聞こえてくる。
「あなた」
お澄が呟いた。
(まさか、ご主人まで出てくるなんて)
なんというかもう、勘弁してほしい。浅黒い肌色にがっしりした体つき。一見すると宿屋の主人には見えない。
(……ご主人の方こそ『ハチロク』みたいだな)
 思わずセンは後じさる。今まであまり人と関わってこなかったセンだ。あまり大勢の中で話すことには慣れていない。
 主人はセンの前に立ち、話し始めた。
「宿の中できちんとお礼を、と思っていたのですが、なかなか中に入ってくる様子がないので。私はこの宿の、一応、主人をやっております、源衛(げんえ)と申します。あなたがセンさんですか。夜依を助けていただき、本当にありがとうございました」
主人、源衛は深々と頭を下げた。
「そ、そんな。たいそうなことはしていませんから。本当に」
「いえいえ、あなたにとっては大したことではないかもしれませんが、こちらとしてはいくらお礼を言っても足りないくらいです。……ふたり分の命を助けていただいたわけですから」
「ふたり?」
センは首をかしげる。まさか夜依の腹に子どもがいる云々の話ではないだろう。
 源衛はゆっくりと頷く。
「はい。そこにいる男は弥久といって夜依の兄なのですが、見ての通りいつまでも妹離れできない、しょうもない男でしてね。もしあなたが夜依を助けてくださらなかったら、きっと、弥久は壊れてしまったでしょう――心が」
「こ、ころ……」
弥久たちを見る源衛の目は優しい。弥久は小恥ずかしそうに言い返す。
「源衛さん、しょうもない男って言うことはないじゃないですか」
「はは、本当のことを言われて怒っているうちは、まだまだだよ。……それより弥久、夜依を連れて部屋へ上がりなさい。今日はもう、板場に出なくて良いから。夜依と一緒にいてやりなさい」
「……はい。ありがとうございます」
 弥久は少し涙声で答えると、もう一度センに頭を下げ夜依と一緒に宿の中に入っていった。センもふう、と一息つく。
(よし、じゃあ俺もこの辺で)
と思ったのだが、
「澄、センさんにお茶を用意しなさい」
と源衛が言った。
 今までのセンなら、白々しい言い訳を並べて人から逃げていた。だけどセンは、あの人を――千花を探すと決めたのだ。人と関わって話を聞くのは第一歩。
(こんなところでくじけていられない)
胸がどきどきと脈打っている。怖い。ぐっと手を握り、源衛の後に続いた。
(でもまさか千花のことを探そうと思ってから初めて話をするのが宿屋のご主人とはな……)
最初はもっと茶屋なんかでお喋りな店の者やあちこちを回っている行商などから始めようと思っていたのだが。
 入り口からまっすぐにのびる長い廊下を進む。店の前でのやり取りを知っているのかわからないが、センを見る店の者たちの視線が何となく温かく感じる、気がする。
(悪い気はしないんだけど……なんかなぁ)
むずがゆい。
 突き当りを左に曲がり、細い廊下を。その廊下も突き当り、そこには引き戸があった。
「ここから先は、私ら宿の者の寝起きする所でして。汚いところですが、静かですから。どうぞ」
源衛の言葉に「はあ」と返事し後に続く。引き戸一枚隔てただけだが、たしかにそれまで聞こえていた喧騒が嘘のように消えた。
 通されたのは汚さとは無縁の小ざっぱりとした部屋だった。この部屋のある建物はどうやら離れになっているらしく、開け放たれた障子の向こうには宿屋とは別の建物の壁が見えた。一角に簡単な屋根があり、木の切れ端や薪がたくさん積まれている。
「ああ、あそこには湯場です」
センの視線に気づいたのか、源衛が説明した。
 普通、宿屋の風呂というのは一人しか入れない小さなものだが、水色屋のものはそのまま湯屋として商いを始められるほど大きなものだった。
 少ししてお澄がお茶と茶菓子を持ってきた。おいしいお茶だ。
 人数が増えた尾に部屋は返って静かになった。お澄は入口の近くで黙って座っていて、話す様子はない。蝉の声と遠くの喧騒ばかりが場の音だ。
(気まずい……。こう言うときって、どうするんだ?)
冷や汗が背を伝う。暑さで上手く回らない頭で考えていると、突然、源衛が切り出した。というより、態度で示した。
 源衛は額が畳に付くほど低く頭を下げたのだ。お澄も同じように頭を下げる。
「わ、ちょ。源衛さん、女将さん、やめてください! 俺は、本当、大したことをしてないんですから。夜依ちゃんは、俺が何人もやっつけたって言いましたけど、実際は、」
「いえ」
びっくりして慌てるセンの言葉を源衛の低い声が遮る。
「そこは別に良いのですよ。夜依が無事に帰ってきてくれたことが皆うれしいのですから。それはやはりセンさんのおかげでしょう。だからセンさん、本当にありがとうございます」
 顔を上げた源衛の表情は優しく穏やかで、夜依が無事に帰ってきたことを素直に喜んでいるようだった。少しだけ不思議に思う。
「どうして、ですか」
聞いていた。
「どうして、とは」
源衛が不思議そうに繰り返す。意味を深く考える前に言ってしまったので、自分でもよくわからない。上手い言葉が見つからない。
「ええと、夜依ちゃんはこの宿にとって、とても大切な子なんですか」
「もちろん。夜依はよく働いてくれますし」
「源衛さんの子供とか、そういうわけじゃない、ですよね」
「ないですよ、まあ、あの子の場合は本当に赤子の頃から見ていますけども」
「……はあ、そう、ですか」
 センには源衛とお澄の夜依に対する想いが、ただの主人夫妻と奉公人のそれには思えなかった。夜依が無事だったことは嬉しいだろう。センだって嬉しい。でも夜依を助けたセンに主人夫妻は自ら頭を下げた。ただの奉公人のためにそこまでするのだろうか。
 実はセンも奉公をしていたことがある。なにをするにも金というものは要るし、付きまとうものだ。奉公というより日雇いにものが多いが長いものでは幾月が滞在したことがあった。店の者たちの中にはセンによくしてくれる者もいたが、主人というのは誰も冷たい人が多かったように思う。
(俺と夜依ちゃんじゃ、根本が違うからかな……)
 どうして源衛とお澄が夜依のためにそこまでするのか、センにはよくわからない。普通はそういうものなのだろうか。
 考え事していてぼんやりした表情のセンを見ていた源衛が、「ああ」と頷いて話し始めた。
「夜依だけが特別なわけではないんですよ。たとえ誰がいなくなっても私たちは悲しいし、帰ってきたら心底喜びます。商家にとって同じ店で働く者はみな家族ですからね」
(みんな、家族?)
家族。その言葉の持つ、なんと温かな響き。センには、無縁の――。
「……みんな家族、ですか。すごく素敵な考えですね」
 暗い方へ迷走しかける思考を押し殺し、笑顔でセンは答えた。
「本当に夜依を、私らの家族を助けてくださってありがとうございました」
源衛がもう一度頭を下げたので、センもお返しというわけではないが、負けないくらい深く頭をさげる。
 そして、ふたりとも黙りこむ。
(な、なんで黙っちゃうんだよ。つか、いつ頭を上げればいいんだ)
慣れない状況が続き、どうして良いのかわからない。今さらからでは嘘やごまかしを並べてへらへらとこの場を離れることもできない。顔を上げて何かを話さなければと思うが、体は動かず、時間が経てば経つほど状況は厳しくなっていく。
 そのとき。
「ほほ、あなたもセンさんもいつまで頭を下げあっているつもりです」
お澄が上品に笑った。その声でセンと源衛は顔を上げ、目が合い、お互い気まずそうに苦笑し合った。お澄は入口の襖近くに黙って控えていたので、その存在をちょっと忘れていた。
「センさん、ごめんなさいね。この人は、元々うちの料理人で、料理一筋。だからあまり人と話すのが得意ではないんですよ。とくに今みたいに間を読むのが下手なんです。お付き合いさせてしまって。首が疲れてしまいますよねぇ」
「こら、余計なことをいうんじゃない」
お澄は楽しそうに言い、源衛は恥ずかしげに笑っている。
(なんか、いいなぁ)
ふたりの様子を見ていると、自然と笑みが浮かぶ。その笑みには純粋な好意だけでなく諦念とか羨望とか色んな薄墨めいた感情が、少し混じっているけれど。
 この宿場やこの宿には、優しい気持ちがあふれている。亀戸屋老人が夜依を可愛がる心、弥久が夜依を想う心、夜依が弥久を慕う心、主人夫妻が奉公人を家族だと思う心……。どれもセンは知らなくて――少しだけ切なくなってしまう。ちらりと頭の片隅で、夕凪のことを想った。
「ところで、センさん」
 目元に笑みを残したお澄がセンを呼ぶ。
「はい?」
「今夜泊まるお宿はお決まりですか?」
「いえ、決めていませんけど」
 決めていないというよりも、和泉宿に泊まる気がない。人の多い町はセンにはまだ辛いものがあるし、何をするにも金の相場が高い。
センの答えを聞き、お澄が嬉しそうにぱんと手を打つ。
「じゃあ、うちに泊まっていってくださいよ。ええ、そうしましょう」
「え、でも」
「もちろん、代金を頂こうなんて微塵も考えていませんよ。夜依を助けてくださった恩人ですもの。何日いてくださったってかまいません」
「いや、あのー」
「そうと決まれば、さっそく料理場の方に言ってこなくちゃ。とびきり腕をふるわせます」
「いえ、そこまでしてもらうわけには」
楽しみにしていてくださいね、と言い残しお澄は出て行った。
(嵐みたいだ……)
 センの声が小さくて聞こえていなかったのもあるだろうが、お澄はとんとんと話を決めてしまった。
「すみませんね、お澄の奴が勝手に……」
源衛は困ったようにも面白がっているようにも見える笑みを浮かべている。
「あれは顔つきに似合わず、押しの強いところがありましてね。センさんの都合も聞かずに……まったく」
センに予定は全くない。けれど。
(さすがに泊めてもらうのは、悪いよなぁ)
 夜依も弥久も源衛もお澄も、みんなセンに感謝しているようだが、センがやったのはハッタリを噛まして威勢が良いだけの奴らを蹴散らしただけだ。それくらいのことでここまでしてもらうのは、申しわけなさすぎる。
(こんな俺のために)
 それにまだ時刻は昼下がりだ。今の季節ならあと二、三時(一時:約二時間)は歩ける。目指す場所があるわけではないが、目指す人がいる。もしここで話を聞いて千花の手掛かりがつかめなかったら、和泉宿を出よう。夜は野宿で良い、一番気楽だ。
 センはお澄の提案を辞退しようと口を開いた。
「あ、の」
「なんです? やはり何か予定がありますか」
でも口からでた言葉は、
(……っ!?)
「あー、いえ。では、お言葉に甘えさせてもらいます」
正反対だった。
「おお、よかった。弥久たちも喜びます」
「……今晩、よろしくお願いします」
源衛とセンはそれからいくつか言葉を交わしたが、センの耳には入っていなかった。
 お澄の提案を辞退しようと口を開いたとき、ちらりと視線の隅をかすめた姿。湯場の薪置き場に枝束を運んできた男の姿。
(あれは――)
森の中で見た、残像の男だった。



inserted by FC2 system