愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



瀬切りの和泉*2  ||セギリ ノ イズミ

「へえ、これが……」
 宿場町と道を隔てる大木門を見上げ、呆然と呟いた。
「和泉宿です」
夜依が自慢げに言った。慣れない喧騒にくらくらしてしまいそうだ。
 町の構造は大小の違いこそあれ、ほとんど同じようなもので四角を基本の形としている。向かいあう二ヶ所または四方に町と外を分ける大木門があり、大木門から大木門へまっすぐ大通りが伸びる。大通りの周辺は当然商家が立ち並び、職人やその他の者が住む家や長屋、寺などはその奥に立ち並んでいる。間には木戸があり、これは夜間は防犯のため閉められるのだ。
 和泉宿ほど大きな町だとやはり規模も違う。途端に活気ある。大通りの両脇には所狭しと宿屋や店が並び、旅人同士の会話や呼子の掛け声が耳に入ってくる。
「すごく、にぎやかだね」
あまりの人の多さに感動に近いものを覚える。夜依がくすくすと笑う。
「まだまだですよ。これから夕方にかけてのにぎわいは、もっとです」
「ああ、そうか。そうだよね」
たしかに旅人は夕方あたりを目指して宿場にやってくるのだろう。昼間をやっと過ぎたこの時分、まだ人が少ないというのも納得できる。
(でも、もっとか。想像できないな)
 センは今まで、なるべく人と関わらないように生きてきた。宿場や宿屋に泊まったことがないわけではないが、こんな大きな宿場ではない。泊まるとしても広葉路が二本交わった場所にある小さな町程度だったし、大体の宿場や町というのは素通りしてきた。
「あれ、夜依ちゃんかい?」
門をくぐったところで突っ立っていると、夜依に声をかける人がいた。声のした方を見ると、下腹の出た白髪の老人がいる。
「あ、亀戸屋(かめどや)さん」
 夜依が返事する。知り合いのようだ。亀戸屋老人はにっこりと曇りのない笑みを浮かべた。垂れた頬が人のよさそうな印象を与える。着物も小ざっぱりとし、上等な生地を使っているようだ。
(どこか大きな店のご隠居かな?)
 亀戸屋老人が口を開く。
「弥久(やひさ)が夜依ちゃんのことを探していたよ。全く、ちょっとでも姿が見えないとアレだ。もう病気だねぇ」
亀戸屋老人は呵々と笑うとすいっとセンを見た。優しい目つきだったが、一瞬だけ目の端がきらりと光ったように見えたのは、センの気のせいか。
 亀戸屋老人は何も言わず踵を返すと歩き始めた。だが少し歩いたところでふいに振り返る。センと夜依を交互に見、目の端にからかいの笑みを浮かべた。
「しかし夜依ちゃんもやるねぇ。兄さんを心配させて、逢瀬を楽しむたぁ、なかなかできることじゃあないよ」
とくだけた口調で言い、夜依の反論も聞かないでさっさと消えてしまった。
「あ、亀戸屋さん! 違いますよ」
 おんぶしているので夜依の顔を見ることはできないが、きっと顔を真っ赤にしていることだろう。このまま黙られていても、気まずいので老人のことを聞いていみる。
「今のご老人は? 良い所のご隠居のようだったけれど」
「あー……あの、はい、亀戸屋文吾(ぶんご)さんって言って、この大通りにある宿屋のご隠居さんです。和泉宿で一番大きな宿屋なんですよ。あ、ご隠居っていっても和泉宿の総締めもやっているんですけどね」
(へえ、やっぱり)
「優しくてすごく良い人なんですけど、わたしのことをすぐにからかうんですよ」
 ふう、とため息まじりに夜依が言うので、センは声には出さず微笑んだ。心が、暖かくなる。夜依を見る亀戸屋老人の眼差しはとてもあたたかいものだった。夜依のことを本当の孫のように思っているようだった。
「もし本当に、十歳そこそこの夜依ちゃんに俺が手を出したら、お兄さん怒るだろうね。お兄さんより年上かも。お兄さんはいくつ?」
何気なく言ったのだが、なぜか夜依は黙ってしまう。
(あれ?)
「どうしたの、夜依ちゃん」
「……センさん、わたし十三歳です。お兄ちゃんは二十一です」
意外と兄と歳が離れている。センより一つ上。夜依はそう言ったきり、黙り込んでしまった。十三歳にしてはとても小柄な子だ。
(子どもに見られたのが、嫌だったのかな)
 しばらく考えた後、センは結論付けた。人の心の機微を考えるのは、あまり得意ではない。謝るべきかとも思ったが結局やめ、代わりに、
「あ、それで。夜依ちゃんの働いている宿屋さんはどこ?」
と聞いた。
「……あっちです」
首のうしろから夜依の細い腕がぬっと伸び、道を示す。
 それからは夜依に示された道を黙々と進んだ。センは何を話していいかわからなかったし、夜依の方も話したくないらしく道を示す以外は口を開かなかった。
 夜依が働いているという『水色屋』は、大通りを一本奥に入った場所に建っていた。通り一本分しか違わないのに、大通りに比べるとずいぶん静かになる。水色屋はこの通りにある店の中では一番大きな店で、間口八間(約十四メートル)、二階建ての建物だった。
「あのセンさん、もうおろしてくれて、大丈夫です。ありがとうございました」
宿の前で夜依が言うので、センは言われた通り夜依の華奢な体を下ろす。足の怪我のためか夜依は一瞬地面に足をつけるのをためらったが、ゆっくりと着地した。
 そのすぐ直後。
「夜依、どこへ行っていたの」
店の中から女の人の声がしたかと思うと足早に、中年程の女の人が出てきた。
「女将さん」
「夜依、よかった。弥久が心配して、仕込みに手がつけられなかったのよ」
女将さんと呼ばれたその人は、くすくす笑った。顔に薄く刻まれたしわがちょっと深くなる。
(今でも十分に綺麗だけど、若い頃はもっときれいだったんだろうな)
 地味な着物と髪型なのにぱっと人の目を引く華がある。色白の細面で、垂れ気味の目元が優しい印象を与える。全体に品のよさを感じた。
「水色屋の女将さんです」
夜依がぱっとセンを見上げ、やや自慢げに紹介した。女将は一瞬目を丸くしてセンを見つめたが、そこは客商売をしているだけあって、すぐ笑顔になり、「お澄と申します」と如才なく言って頭を下げた。
 それでもやはり気になるものは気になるらしく、ちらちらとセンと夜依を見比べていた。関係を測り損ねているのだろう。
(そりゃ、そうだよな)
ごまかしにもならないだろうが、センも苦笑しながら頭を下げた。
 しかし、穏やかだったお澄の表情が夜依の足を見て固まる。夜依の右足首は赤黒く腫れているのだ。
「夜依、その足どうしたの!」
お澄は夜依の肩をつかみ、真正面から夜依の顔を見据える。
「あの、森で、ちょっと……」
お澄と顔を合わせるのを避けるように夜依はうつむいてしまい、それ以上先を言わない。
「何があったの? 夜依、言いなさい」
かたい声のままお澄が問いただす。夜依は答えない。
「ガラの悪そうな男たちに追いかけられていたんですよ」
センはどうしようかと思ったが、このままだと埒が明かないので夜依に代わりに言った。夜依から詳しい話は聞いていないが、間違ってはいないだろう。
 途端にお澄の表情が怖くなる。
「夜依、どうして森になんて行ったの! 最近、危ない連中がいるからって言っていたでしょう! 本当にっ、本当にっ……。連れて行かれでもしたらどうするの!!」
お澄の剣幕に道行く人々もちらちらと視線を投げてくる。お澄の剣幕はちょっと、常を逸しているようにも見えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。女将さん、ごめんなさい」
夜依は声を詰まらせ、同じ言葉を繰り返す。
(まずいな。夜依ちゃんが怒られちゃった)
まさか森にちょっと行ったぐらいでお澄がこんなに怒るとは思わなかった。よほどガラの悪い連中が多いのだろうか。それとも――
「夜依っ! 夜依がどうしたんですかっ!?」
 お澄の声を聞きつけたのか、宿の中から若い男が慌てた様子で出てきた。センは内心ため息をつく。
(まったく、次から次へと……。あれ、足が悪いのか?)
その男は右足を引きずるように歩いている。男は慌てた様子だが、走ることはできないようだ。まだ若い。センと変わらないくらいだ。
「夜依、どうしたんだっ」
男はなんとか夜依の元にたどりつくと、崩れ落ちるようにして夜依の体を抱きしめた。夜依の表情がぐしゃっと崩れる。
「お兄ちゃん、あのね。あの……」
夜依も男にしがみつき、わんわん泣きだす。泣き止んで気丈に振る舞っていたが、連れ去られそうになってやはり怖かったのだろう。
(ああ、この人が弥久さん、か)
 センは夜依と男の態度から、納得した。この男が、夜依の兄・弥久だ。さっきからしきりに名前が出てくる「弥久」はなるほど、妹をとても大切にしている。
(いいな、夜依ちゃんは)
諦観を含んだような笑みが微かに浮かぶ。夜依に嫉妬めいた気持ちがよぎり、そんな自分を恥じた。
「ところであなたは、誰なんだ」
 弥久の誰何(すいか)ではっと我に返る。弥久のやや茶味がかった瞳が鋭くセンを見つめていた。
「あー、俺は、あの……」
その視線の強さに、センはちょっと言葉を失う。――お前が夜依を泣かしたのか。弥久の目はそう言っている。
 助け船を出してくれたのは、夜依だった。涙声で訴える。
「違うの、センさんはわたしを助けてくれたの。違うから、怒らないで」
夜依の言葉を聞いた瞬間、弥久の表情がすっと柔らかくなる。
「あ。そうでしたか。……センさん? 申しわけありません。本当、ごめんなさい」
ぺこりとセンに頭を下げた。
「いいえ、気にしませんから、大丈夫です」
 そこへちょっと落ち着いた様子のお澄が声をかけてくる。
「……事情はよくわかりませんが、あなたが夜依を助けてくださったのですね」
「はい、一応」
曖昧なセンに代わり、夜依が興奮した様子で答えた。涙に濡れる頬は上気している。
「本当にすごかったんですよ! センさんは五人も六人もいた熊みたいに大きな男の人を、一気にばぁって倒しちゃったんです」
夜依は気が動転しているのか、ちょっと話を大きくしている。男は四人しかいなかったし、倒したわけではない。蹴散らしただけだ。しかしお澄は夜依の話を真に受けたらしく、目を丸くする。
「まあ、それはそれは。たいへんお強いのですね。……あの、失礼なことかもしれませんが、もしやあなたは『ハチロク』の?」
ハチロクの名を出す寸前、なぜかお澄は弥久の顔をちらりと見た。
 ハチロクと聞き、センの顔にヘンな笑みが浮かぶ。
「いいえ、違いますよ」
答える声がそっけなくなってしまった。どうしてお澄が弥久の顔を見たのか気になり、見ると――弥久はやけに固い表情をしていた。夜依を抱く腕に力が入っている。そんな兄を夜依も不安そうに見上げていた。
(なんなんだ?)
 どうしてだかさっぱりわからない。けど、何となく見ているこっちまで不安で悲しくなるような顔を、弥久はしていた。



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