千。



時雨心地の希い*1  ||シグレゴコチ ノ コイネガイ

 目覚めてから、三日目の朝、センは村を発つことにした。
「もう少し体を休めてもいいんじゃないか」
雪村の言葉に首を振る。
「いえ、体はもう大丈夫ですから」
実際、体の傷はほとんど癒えている。センは傷の治りが早い。クルイ化しているときはさらに。クルイ化しているときの傷は消えるわけではなく、黒目が戻れば傷も戻ってくる。この辺が人とクルイ、中途半端な――千花に言わせれば『出来損ない』の――センの体。それでも普通の人に比べれば格段に早く傷がふさがるのだから、一命さえ取り留めれば大体は死なないし、半月以内に傷は癒える。
「これから、どうするつもりだ」
 じっとセンを見つめ、雪村が聞いてきた。センは目を左右にやり、つむり、最後にまた雪村を見る。
「……千花を、探そうと思います」
この三日間、ずっと考えていた。
「真面目に、探そうと思います」
今までは、ただ逃げていた。千花を探すと言いながらも、会いたくなかった。会ってしまえば殺すしかないし、殺さない自信がなかったから。今もないけれど、それでも。
 でも夕凪と出会って、この三日間考えて、千花を探すことにした。
(どうしても、人に戻りたい)
センはもう、どこにも行けないから――せめて、死ぬときは人でありたい。千花を殺すしかなくても、どうしても。
(人に戻ったとしても、夕凪にも誰にも、許されるわけないのにな)
たくさんの人を殺した事実も無くならないし、夕凪に会うこともない。純粋な望みの最果てに、不純な思惑がある気がして口元が歪む。
「お前が決めたことに私が口を出すことはしないが」
 雪村の瞳が、不安げに揺れる。ためらいがちにセンの頭に手を伸ばし、
「あまり自分を粗末にするような真似はするなよ」
と言って頭を撫でてくれた。くしゃりと雑な撫で方に、これが父親の撫で方かな、などと思ってしまい泣きそうになる。
「ありがとうございます」
はい、とは言えなかった。言って良いと思えなかった。
 例えば誰かが殺されそうになっていて、身代わりが許されるなら喜んで死ぬ。それが一番まともな死に方なのではないかとさえ思う。
「なあ、千雨」
 センを呼ぶ雪村は薄く苦笑していた。
「私がお前に言った『夕凪と一緒になったらどうだ』という言葉だが、覚えているか? あれは」
「あ、わかってますよ、香和童子がいるから夕凪から離れるなって意味だったんですよね」
クルイにされている途中、雪村が必死で伝えてくれた想いだ。そのおかげで夕凪の命があるのだから感謝しなければいけない。
 ああ、と返事をすると思っていたセンの予想を裏切り、雪村は首を横に振った。
「いや、確かにその意もあったが……私は、本当にお前と夕凪が夫婦になればいいと思っている」
雪村の顔がいつの間にかほほ笑みに変わっている。でも少し物悲しげなのは、雪村にもわかっているからだろう。
「そんなの、無理ですよ」
(だって)
センは、雪村にわからないように体の後ろで拳を握った。顔だけは笑う。
「夕凪は、クルイが大嫌いなんですから」
クルイが好きな人なんて誰もいないが、その中でも夕凪はクルイが大嫌い。
「……そうだな」
(そもそも夕凪は俺のことを好いてはくれないだろうし)
色々と、ひどいことをした。
「あまり、幸せな戯言は言わないでください……辛い、だけだから」
「悪かった」
センはもう一度雪村に笑顔を向けて、再び支度にとりかかった。


 センが村を出るのだそうだ。きく婆がさっき教えてくれた。見送りには行かないと言っておいた。それきり、きく婆は来ない。
 三日間で、夕凪の心もだいぶ落ち着いた。センに会わない決心もできた。これでセンがいなくなってしばらく経てば、悪い夢だったと思えるようになるだろう。何だかんだ言っても言われても、夕凪はきく婆や村の人たちを守らないといけないのだから。
(いつまでもセンのことなんか考えていられない)
 夕凪は、寝そべったまま身じろぐ。床に骨が当たって痛かった。薄暗い天井を見つめる。今だけはと言い訳し、忘れると決心したばかりのセンのことを想う。
(セン、行っちゃうんだ)
「さよなら、セン」
目をつぶった。
 何も見えない暗闇の中、何故か自然に、その想像は夕凪におこった。
――きっとセンは、簡単に死を選ぶ。
あまりにも生に執着がない。誰かの代わりに死ぬことを厭わない、というよりもむしろ進んで身代わりになってしまいそうな危うさがある。
(もしかしたら、自分は生きていちゃいけないって思ってるのかもしれない)
クルイだから。誰かの身代わりになって死ぬことが一番良い死に方だとでも思っている節がある。香和童子と戦った時だって、傷だらけでぼろぼろになっても一切己をかえりみず、夕凪と雪村のために傷ついて、死にそうになった。
 そう思うと何だか、無性に腹が立ってきた。ぎゅっと手を握る。
(生きたくても、生きられない人もいるのに)
夕凪の家族は、クルイに殺された。父も母も姉も、誰も死にたくなんてなかった。生きたい人が死んで、生きられるのに死のうとしているセンがいる。それはセンがクルイだからだろうか。いや、違う。クルイは壊すことしか考えていない。死ぬ直前まで壊す。ならこれは、セン自身の考えだ。
(そんなの、おかしい)
「狂ってる」
吐き捨てた声が震えた。これは、怒りだろうか。それとも、簡単に消えてしまうセンという存在の危うさが、怖いのだろうか――。たぶん怖いのだ。センが死んでしまうのが怖い。
 夕凪は立ち上がり、部屋を駆け出る。
「婆さま!」
呼びかけたが返事はない。もう見送りに行ってしまったのだろう。センは北神居からそのまま街道に出るそうだ。ここからじゃ、正反対。
 舌打ちし、土間に下りる。走るなら草鞋の方が良いのだろうか緒を結ぶのももどかしく、草履をひっかけ家を出る。朝日のまぶしさに目を細めた。白い朝日を浴びていると、それだけで元気が出てくる気がする。白い瞳は憎いのに白い朝日は良い。同じ白なのに、その違いは何なのだろう。センと人の差は何なのだろう。考え込みそうになった疑問を追い払い、夕凪は家の前に伸びる坂を駆け下りる。
 センはクルイだとか、夕凪はクルイが嫌いだとか、今はどうでもいい。
(わたしは、センに言いたいことがある……センに)
センはセンだ。今はそれだけ考える。
 夕凪は北神居へ向け走った。センが夕凪の元を去ろうとした夜も同じように森へ向けて走っていたな、と思った。同じように怒っていた。そして、言いたいことを言えなかった。
 言えなかったから、今きっと、こんなに後悔している。
 今度は言わなきゃ、と思った。



inserted by FC2 system