千。



大禍時のちとせ呪い*1  ||オオマガドキ ノ チトセノロイ

 辺り一面、真っ白。
 センは自分を感じる。でも自分の輪郭がぼやけたようで、どこまでが自分で、どこからが違うのかがわからない。
(俺は、死んだのか……?)
頭の中の霧がどんどん濃くなっていく。何も考えたくない。
(それなら、それでいい)
人殺しの自分なんて、生きていても誰のためにもならない。己から死ぬのは恐くて出来なかったから、死んだなら死んだで、ちょうどいい。
 間近に気配を感じ、ふと目を開ける。目を開けて初めて、自分は目を閉じていたのだと気づいた。
(千花……)
 あの人がセンのすぐそばにいた。手を伸ばせば届くほど。あの人はセンの方に手を伸ばし、ほほ笑んでいる。このほほ笑みを、センは欲しがっていた。もその手を取ろうと手を伸ばす。
 ふたりの手が触れ合う寸前、すっとあの人の身が引いた。ほほ笑んだ顔のまま、あの人は下がっていく。センは駆けだす。手を伸ばす。届かないとわかっていても、手を伸ばす。腕が千切れるくらい、一生懸命。自分の腕なんて、どうでもいいから。
(どこにもいかないで)
かつん、と何かにつまづき、つんのめる。
「いたい」
涙があふれて、目の前がぼやける。己の手を見ると、やけに幼く見えた。
『だいじょうぶ?』
 心地良い声が聞こえ、すっと手を差し出される。センは顔をあげた。
「ちか?」
顔はよく見えなかったけれど、似ている気がする。センは、その人の手を取った。温かかった。
 でも、きっと、触れてしまったから――。
 ひた、と後ろから、冷たい何かがセンの頬を触る。そのまま“それ”はセンの首に絡みつき、すごい勢いで引っ張った。
「ぐっ」
なんとか首を動かし後ろを振り返れば、暗闇。近づく暗闇。いつかの夢で見たような。
「千花っ、千花っ!」
 必死で泣き叫んだけれど、あの人の姿は遠く、豆小粒のよう。引っ張られる。闇に近づく。
「千花っ、千花っ、千花っ、千花っ、千花っ、千花っ、千花っ」
 センの心身は、戻れるはずのない幼年に返っていた。
「ちかぁ……っ」
 もうすぐ、闇に呑まれる。
 センは幼い頃、夜が怖くて仕方がなかった。
(ちか、こわいよ)
 大丈夫、と言ってくれる人は、もういない。


**********


「千花っ」
 夢の名残を引きずる。
(俺は、なんだ)
一瞬すべてがわからなかった。ふわふわしているような、重い石を呑んでいるような不思議で気分の悪い感覚だ。
 目線の先に、焦げ茶の木目が見える。どこかの部屋だ。
(俺は、生きてるのか?)
「セン」
声が聞こえた。びくりとする。
(夕凪……どうして)
自分が生きていたとしても二度と聞くことはないと思っていた声。
 顔を夕凪の方に向けようとすると、全身に痛みが走った。
「うっ」
「大丈夫?」
思わず呻くと、夕凪はセンの顔をのぞいてきた。心配そうな顔。
(どうして……)
どうして夕凪はセンに心配顔を向けているのだろうか。わけがわからず困惑したが、少し考え合点がいく。
(ああ、そうか)
夕凪が、優しいからだ。夕凪は優しい。だから怪我をしている人を見たら構わずにはいられないのだろう。死にかけのセンを死なせてくれなかったのだろう。きゅっと拳を握る。
(俺は、人じゃないのに)
「セン」
 夕凪は今にも泣きだしそうだった。不安げに歪んだ瞳は潤んでいる。
「ねえ、セン」
夕凪がもう一度センの名を呼び、問うた。
「センは、何なの」
 センは笑ってみせる。笑顔になっているか分からないけれど、笑ってみせた。
「わかってるでしょう」
夕凪の瞳が翳る。センは一息に続けた。
「俺はクルイだ」
夕凪は何か言いたそうに口を開いたが、音を出す前にぎゅっと結んだ。
 夕凪の瞳は、センをまっすぐ見つめている。まだそんなまっすぐに自分に向き合ってくれるのかと思うと、くじけそうになる。夕凪は言った。
「全部、話して」
けれど。
「もう、話した」
「え」
センもまっすぐに夕凪を見つめる。夕凪のこの優しさは、愚かしさと同じだ。その優しさに泣きそうになっている自分も大馬鹿だ。
(だから、甘えちゃいけない)
「夕凪、もう俺にかかわらないでくれ、もう話すことなんて何もない」
思ったより冷たい声が出せた。これでいい。
 夕凪の顔がぴた、と一瞬固まりすぐに歪んだ。「あ」だか「う」と嗚咽が漏れ、夕凪は口元を手で覆う。勢い立ち上がり、センを見下ろし――一筋、涙。伝った涙を合図に夕凪は踵を返した。乱れた足音と、タン、タンという襖が開いて閉まる音。夕凪が部屋を出ていった。



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