千。



千呪獄の月日向*6  ||センジュヒトヤ ノ ツキヒナタ

 センは夕凪の元へ歩いた。
 歩くごとに体から血が流れ、力が抜けていく。力が入らないのに何故か足は動いていて、センは夕凪の元へ歩いている。
(どうして俺、生きてるんだ)
体を駆ける血がかっと熱くなり、次の瞬間には凍るように冷たくなった。
 真っ白になる目の前。何も聞こえない、血の匂いもしない。体中に広がる痛みだけを感じる。耳元で、あの人の声が聞こえた。笑っているような話し方だ。
――馬鹿な子。クルイのくせに人助け?
思わず、笑った。
「違うよ、千花」
 今なら簡単にわかる。
(俺は、夕凪を守ったわけじゃない)
殺したくて殺めた。狂って、殺めた。守るために殺めるのと、殺した先で助けるのはまったく違うことだ。
 まったく違うことだから、センの心はこんなにも、苦しい。ぐちゃぐちゃになりそうだった。
「千花、俺はまた人を殺してしまったよ――ねえ、千花」
(貴女は、俺に何をさせたいんだ)
ぐちゃぐちゃになりそうだった。いっそ、芯まで狂えてしまえば楽なのに、なれないことがわかっている。
 苦しい。
「ち、か」
 呟いて、こぼれた冷たい雫は、誰にさらわれることなく真っすぐ地面に落ち染みた。
 ふっと周りの景色が戻ってくる。
「セ、ン」
 いつの間にか夕凪の前まで歩いてきていた。夕凪は焦点の定まらない目を見開き、センの方を見ていた。
「夕凪」
名を呼び、手を伸ばす。夕凪はびくりと肩を震わせ身を引いた。センは微かに笑う。端から夕凪に触れる気はない。
(触れる資格なんてない)
ただ、見せたかった。夕凪の前で己の手の平をかざした。
「またひとつ汚れたよ、俺は……」
 夕凪の瞳がゆらりと揺れた。きっとセンを恐れているのだろう。当たり前だ。
(俺は、クルイなんだから)
「だから言ったろう、俺は、人殺しだって」
こわばる頬を無理やり動かし、自嘲の笑みを作った。夕凪はうつむいてしまう。
「セン」
夕凪がセンを呼んだ。雪村のことを見ているから、その安否を問うているのだろう。
「ああ、大丈夫、きっと。雪村さんなら、大丈夫だよ」
夕凪を安心させようとなるべく優しい声を出したが、今更だとも思う。今自分が夕凪に見せたことを考えると、とても無意味なことだ。
(夕凪の前でクルイになって、人を殺して、なのに優しさなんて、馬鹿みたいだな)
たぶん自分のために夕凪に優しくしている。あれだけのことをしておいて、今さら夕凪に優しい人だなんて――人だなんて思われるわけないのに。
 夕凪が首を横に振った。
(どういう、意味だろう?)
センにはわからない。考えようとすると、ふっと意識が遠のく。
 聞こえてくる、あの人の声。とても愉快そう。
――出来そこないは、傷を負わなくちゃ。
どくん、と鼓動した。それに合わせて痛みが全身に広がる。一時的にふさがっていた傷が、全て開いたのだろう。
 また血が流れ始める。まだ流れる血があったのか。生温かいのに、体の芯は冷えていく。
(どうしてこんなに痛くて、誰かを殺してまで、俺は……生きなきゃいけないんだ)
 限界を超えきった体はセンの意識を非難し、遠くへ連れて行こうとする。
(どうせなら永遠に閉じ込めておいてくれればいいのに)
すっと意識が消えた。


 ちか、とセンは言った。それは誰だろうと、夕凪は思った。確か、前もその名を呼んでいた。センの頬から何かが流れ落ちた。血だろうか、それとも。
「セ、ン」
呼んだ。呼ばれて初めて、センの瞳は夕凪のことをとらえたようだった。
「夕凪」
血のせいか、しゃがれた声だ。
 センが夕凪の方に手を伸ばしてくる。思わず、身を引いた。頭の中に、センの白目がよぎった。怖い。センが、怖い。
 でもセンの手は夕凪に触れる前に止まった。センの手は微かに震え、べったりと血が付いている。
「またひとつ汚れたよ、俺は……」
 センがこう言ったとき、夕凪は着物のことを言っているのだと思った。本気でそう思った、思いたかった。実際、センの着物は汚れていた。夜だから黒く見えるが、明るければその汚れは全部赤色だろう。赤色は血だ。センの血と、センが殺した子どもの血だ。
(殺した? センが、あいつを?)
「だから言ったろう、俺は、人殺しだって」
(センは人殺し……クルイの人殺し)
夕凪が大っ嫌いな、クルイ。クルイなら――。
(殺してしまおうか)
 するり、と心に浮かんだ考えは案外に良案に思えた。センは強い。普段間抜けなふりをしているが、夕凪よりはるかに強い。でも今なら殺せる。センはクルイだ。家族の敵だ。殺して何が悪い?
 どうやって殺そうか、と思ったときだった。センが、笑った。
 いや、違う。
(セン)
センは笑おうとしたのかもしれない。ぎこちなく動く頬は笑みを浮かべようとしたのかもしれない。
 けれどセンは、泣いていた。
 中途半端な笑みは泣き崩れる寸前にとても似ている。少し下がった目じりから、涙が流れていた。センの涙を見たとたん、夕凪は自分のことがとても恐くなった。そして、恥ずかしかった。
(わたしはとても、汚い)
己の薄汚れた心根が顔に出るんじゃないかと、それをセンに見られ蔑すまれるんじゃないかと思い、夕凪はうつむいた。ごめんなさい、という言葉が出なかった。
(わたしはどこまで……っ)
 センが香和童子を殺したのは、変えようのない事実。センの瞳が白く抜けていたことも、事実。センが泣いていることも、事実。
「セン」
 心細くて、センを呼んだ。このままセンが遠くへ行ってしまいそうな気がした。それは、嫌だった。
(センの口から全てを聞きたい)
 センを引きとめるための呼びかけを、本人は勘違いしたらしい。
「ああ、大丈夫、きっと。雪村さんなら、大丈夫だよ」
優しい声音。こんな時まで、夕凪のことを気づかってくれている。センは優しい。そんなセンを殺そうなんて考えた自分が、惨めで仕方がなかった。
 夕凪は首を振る。違う、違う。
(違うよ)
雪村が命を取り留めたことは嬉しいが、違う、そうじゃない。今、一番心配なのは。
(センは、大丈夫なの?)
センが死んでしまっては、何も聞けなくなってしまう。センを恐れたままになってしまう。それは、嫌だ。
 うつむいた視線の先に、センの爪先が見える。血だまりが広がっていく。今できた傷であるかのように血の勢いは早い。
(手当て、しなくちゃ)
やっとそこまで思考が達し、夕凪は立ち上がろうとした。
 同時、センの体が傾ぎ、己の血だまりの中に倒れた。蝋燭の火が消える様に似ていた。
「セン?」
夕凪はセンを呼んだ。返事はない。
「セン」
返事はなく、ただ、耳に痛いほどの静寂が森を包んでいた。
 おくれ毛を揺らすほどの、ささやかな風が吹いている。月の青白い光は無慈悲だ。反対に、森の闇はどこまでも濃く、深く……。
「セン」
 いつまで待っても、センは答えてくれない。
 むせ返るほど、血のにおいがする。



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