千。



千呪獄の月日向*1  ||センジュヒトヤ ノ ツキヒナタ

「灼尊殿、どういうことですか」
 夕凪が聞いた。声が掠れている。センも同じ気持ちだ。
(雪村さんを裏切ったのか?)
真っ先に考えたことに、首を振る。灼尊が狂環師として全てを操っていたというには、灼尊の様子がおかしすぎる。茶色い歯を剥き出し、意味のない言葉ばかり発している。
 そもそも灼尊はそんな男ではない気がした。一度しか会っていないが、その一度の中で、雪村の言うことを忠実に――悪い言い方をすれば犬のように――聞く男、という印象をセンに与えた。
(あれが芝居だったとは思えない)
「がが、ががぁ」
 大きな口を開け灼尊が笑う。だらだら口の端を涎が流れる。どろんと濁った黒目が、笑うごとに上に上がっていき、白目の部分が多くなる。
(まさか)
ざわりと寒気。
「逃げろ、夕凪」
本能的に呟いた。
 ――“これ”は、いけない。
(人がクルイになる瞬間か……っ!)
 ぐるんと目玉が一回り、灼尊の目が真白くなった。
(くそ)
センは灼尊を睨み付ける。この怪我で、クルイになった灼尊と戦う……。
(厳しいだろ、どう考えても)
 目の前の灼尊に注意しながらも、センは辺りに意識をめぐらす。
(どこだ)
こうなったら、狂環師を殺すしかない。
(さっきの声はきっと狂環師のものだ、まだ近くにいる。灼尊さんを相手にするよりはマシか)
自問する。答えはわからない。でも灼尊を相手にするのは分が悪いのは確かだ。灼尊は力が強すぎる。当たったらもちろん駄目、受け止めても刀が折れる、避けられるほど元気がない。
 狂環師の気配を探す――が。
(いない?)
この場にいる人間以外の気配がない。狂環師が相当うまく気配を消しているのか、実はこの場にいないのか、センが焦って上手く気配を掴めぬのか。どうであっても、まずい。
 額に滲んだ冷や汗が頬から首筋へ伝った。不愉快だ。
 不意に灼尊が身じろぐ。
「が、ああ、があぁっ」
大口を開け、白目を剥いた灼尊は、血の涙を流した。両の目じりからつつつと血が流れる。
 ぴぃっと糸で張ったように、灼尊の顔の皮が真ん中から縦に裂けた。血は出ない。血は出ないが、
「えっ」
指が出てきた。灼尊の内側から、皮ふをこじ開けるように指先が出てくる。
「いやぁっ」
夕凪があげた悲鳴に構わず、指先はうごめき、灼尊の皮を破る。引き裂く、引き裂く、淡々と黙々と。
 センも夕凪もあまりのことに言葉が出なかった。呆然と灼尊と、灼尊の内から伸びる指先を見ていた。センは速く鳴る己の心音が邪魔なほどよく聞こえた。
 動きのない時が流れる。動いているのは灼尊をこじ開ける指先だけで、それも含めて動きのない時間だった。灼尊を突き破る指先を見ているのは悪夢だ。夢じゃない分、さらに質が悪い。
 蝶のように灼尊を脱ぎ捨て、中から出てきたのは十歳くらいの子どもだった。
 あさぎ色の水干を着た奇麗な顔の子ども。夜闇に映える白い肌に、月の光を反射する黒髪のおかっぱ。何の感情も見えないくりくりした瞳が不気味だった。
 子どもは足元でくたくたになっている灼尊の抜けがらを一瞥し足蹴にした。
「ふむ。死んだか、この傀儡も」
子どもらしさの欠片もない声、感情の抜け落ちた顔。灼尊はどう見ても、生きているとは思えない。蛇の抜け殻、というのが近いか。張りのない皮ふが地面にとぐろを巻いている。
(なんだよ、これ)
 今までこんなもの、見たことがない。この子どもから、目が離せない。
 センがじっと子どもを見つめていると、子が見られていることに気づく。灼尊を冷たく見下ろしていた瞳に、きらりと光が宿る。取って付けたような不自然なほほ笑みを浮かべた。
「やあ、はじめまして、千呪の子よ。……我は香和、香和童子。会えてうれしいね、本当に」
――千呪の子――
久しく呼ばれた忌み名。すっと感情が冷える。
 センは香和童子を見つめる。自分の顔なんて見えるわけもないが、恐い顔をしているだろう。怒りや悲しみやら、湧き上がり渦巻く気持ちを押し殺し、努めて静かな声を出す。
「香和童子、雪村さんをクルイにしたのはお前だな」
「違うぞ」
香和は槍を手遊ぶ。
「ふざけるな」
「ふざけてなぞ、いないぞ?」
香和が薄ら笑ったまま、雪村へ目をやった。
「あれはまだクルイになっておらんもの」
「結局はお前が狂わせたんだろう!」
思わず声を荒げる。腹の傷に響いた。香和は顔を変えない。
「あと三日待てと言ったのに。若いのは早急でいけぬな」
(やっぱり三日ってのは、そういう理由か)
「そうそう、村をクルイ共が襲ったのもおんしの所為ぞ」
後ろで夕凪が「え」と声を上げる。その様子に香和がくすりとする。
「雪村を急いでクルイにしようとそちらばかりに気が取られてな、他のクルイにまで気が回らなかったのだ。全くおんしのせいだろう? 千呪」
(そんな、ことで)
食いしばった歯の間から、ぎりっと音がもれた。力んだせいでまた血があふれ出すが、それでも怒りは収まらない。香和の勝手な都合だけで、作物をめちゃくちゃにし、夕凪を危険に巻きこみ、佐七に我を忘れさせた。
「刺青を入れればもう少し早く狂わすこともできたのだがなぁ」
「いれ、ずみ?」
 香和の独り言に反応したセンに、香和が面白そうに目を見開く。
「知らぬわけでもなかろうに? ……まあ刺青など、下等の狂環師しか用いぬがなぁ」
「黙れ」
「ふふ、庇うか。実に滑稽」
 大きく息を吸う。落ち着け。大きく息を吸う。腹の傷が痛むが返って、その痛みが現状を思い出させる。
「灼尊さんには何をした、 “それ”は何だ」
灼尊の抜け皮に目をやる。それ呼ばわりして悪いが“それ”はそれ呼ばわりしてしまう程度に人離れしていた。
 香和童子は何も答えなかったが、口元に浮かぶ笑みが少し濃くなった。
 シャン。
 澄んだ音がし、どういうわけか、香和童子の手に錫杖が握られている。香和の身の丈の倍ほどもありそうなものだ。香和の目の色が変わる。ぎらりと宿す目の色は、獲物を狙う鷹のよう。
 ひゅん。
 錫杖をセンに突きつける。途端に先端の数個の環が形を変え、鋭い刃物になった。さっきセンと雪村を貫いた槍だ。香和童子が、にやりと笑う。
「おんしを殺せば、箔がつく。殺させておくんなさい」
芝居がかった口調。水干姿と相まって、さらに芝居の様だ。
(本当に芝居だったら良いのに)
これは現実。



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