ちくりと首筋に、痛みが走る。それ以上は無い。雪村は切っ先をセンの喉元にぴたりと付けたまま動かない。
静かすぎて、静かすぎて、不愉快で不安で、でもこれを壊したら、許されないような静けさ。
静寂が、ふらりと揺れる。雪村が焦点の定まらない瞳でセンを見た。刀を下ろし、もう片方の手で額を押さえる。
「セン……私は」
ぼんやりした声。
「雪村さん」
呼ぶと、雪村の視線がぴったりと合う。雪村の目には、清らかな黒色が戻ってきていた。
(良かった)
本当に、良かった。ほっとして涙があふれてきそうだったから、センは笑った。
「おかえりなさい、雪村さん」
「セン……ありがとう」
雪村が苦く笑いながら言った。
(やっぱりまだ、完全にクルイになってなかったんだな)
予想が当たって良かった。
人をクルイにするのは難しい。狂環師は対象の頭の中を支配し、狂わせると言われているから、頭の良い生き物ほどクルイにしにくい。
(雪村さんはクルイにするの難しそうだよな)
人の中でも、精神力が強い人間の方がクルイにしにくいそうだ。
今日の昼間会ったとき、雪村はまだクルイじゃなかった。
(もし完全にクルイになっていたら、最初の袈裟がけで殺されてただろうし)
殺すことをとどまったこと自体が、クルイになりきっていない証。クルイならそんなことしない。ためらいなくセンの首を落としていただろう。
クルイは、他を壊すことしか考えていないから。
「セン! 雪村様っ!」
夕凪が駆けてきて、
「大丈夫っ」
どちらにともなく聞く。不安そうな夕凪の顔をなんとかしたくて、
「大丈夫だよ、夕凪」
へらっと笑って見せた。雪村に斬られた傷は浅くはないが、センにとっては大怪我というほどでもない。
雪村がセンに手を差し伸べる。
「悪かったな、セン。死ななくて、なによりだ」
雪村の声は落ち着いているし、口調も軽いものだったが、表情は暗い。
「あの、気にしないでくださいね、本当に」
センは困ったように苦笑し、雪村の手を借りる。さすがに一人で立つのは無理そうだ。腹の傷が痛む。
月を叢雲が覆う。灯火が消えるように、ふと『白の地』が闇に呑まれる。
(っ!)
その一瞬、脇腹に激しい痛みが走った。
雲は風に流され、また辺りに月の光が降り注ぐ。センも雪村も動かない。いや、動けない。
「セン? 雪村様?」
訝しく思ったのか、夕凪が声をかけてくる。答えの代りに、雪村の口の端から血が流れた。
「く、そ……」
雪村は血を吐き、センにもたれるように倒れた。
「ひっ」
夕凪の小さい悲鳴。
(ぐぅっ)
雪村を抱き止めようとしたセンの脇腹から、ぐしゅりと血があふれる。
センの脇腹には深く槍が刺さっている。その槍は雪村の背中を突き抜けセンに刺さっている。
(どういうことだ)
わけがわからない。
『くっくっく……』
澄んだ笑い声が聞こえた。子どもだろうか、澄んだ高い声。何故かとても耳に障る。
『これも走狗の定めだろう?』
楽しそうな、人を小馬鹿にしたような口調。
(誰だ)
霞む目を凝らし、槍の柄が伸びる闇に目を凝らした。何も見えない。誰も槍を掴んでいる者はない。
(どうなってんだよ、くそっ)
歯を食いしばり、痛みを堪える。
「ねえ、なに、どうしたの、セン」
震えた声の夕凪。顔色は真っ白で、上手く何かを考えられる状態ではないらしい。センは夕凪に笑いかけた。
その時ぬらりと、空気が揺れた。悪寒が背筋を駆ける。生温かい風がセンの周りを纏わる。
すると指先が現れた。槍に触れる指先。
見えていなかったものが見えるようになった、というのとは違う。本当に現れた。すうっと、幽霊みたいに。指が現れ、腕へ伸び、小岩のようなごつい肩、大きな体、顔。あっという間に、センと雪村を串刺しにする人物が出来上がった。
「な……っ」
その人を見て言葉を失ったのは、センと夕凪どちらだっただろう。たぶん、どちらも。
淡月の光は、はっきりと、大きな体を照らした。夕凪が、呆然と呟く。信じられないのだろう。センだって信じられない。
「灼尊殿……」
灼尊だった。灼尊は黄色い歯を見せ笑う。
(灼尊さんもクルイに? いや)
灼尊はクルイじゃない。濁ってはいるが、目は黒い。
「あ、がぁ。ああ、が」
涎を撒きながらわけのわからない言葉を吐く。
(なんだ、これ)
怖い。灼尊が、怖い。得体の知れない怖さ。今すぐここを逃げ出して、誰かに縋って眠りたい。この先を、知りたくない。
灼尊が槍を思い切り引き抜いた。
「ぐっ」
「センっ」
夕凪の鋭い悲鳴。
センの額に冷たい汗がにじむ。傷が熱い。体は寒い。
灼尊がにたり、と笑った。怖い。
さやさやとゆるい風が吹き、空の雲をなびかせる。木々も揺れる。鳥は眠り、獣は窺う。
あまりにも、いつも通りの森。
違うことはただ一つ。
『白の地』は、血の臭いに淀んだ空気で満ちている。