千。



白野兎の想いうた*4  ||シロノウサギ ノ オモイウタ

 雪村がクルイになった。
(くそっ、まずいな)
センは舌打ちしたいのをなんとか堪えた。後ろには夕凪がいる。腹から流れる血が気持ち悪い。思ったよりも傷は深い。鼓動に会わせ痛みが襲ってくる。
 雪村の白い瞳が、まっすぐにセンに向けられている。
(すぐ襲ってこないのか……? クルイになっても性格が出るんだな)
ふっと笑った。正直、今の状態で雪村の攻撃を何度もかわせる気がしない。夕凪には、大丈夫だと言ったのに。
(俺、夕凪に嘘ついてばっかりだな)
一瞬自嘲し、すぐに雪村を睨み付ける。
「雪村さん、俺を殺しにきたんでしょう? 続きをしましょうか」
 雪村は体をわずかに揺らしたが何も答えず、代わりに声をあげたのは夕凪だった。
「センっ! 何言ってるのっ!? 逃げなきゃ」
「黙って。俺に全部任せて。夕凪は帰りな」
口早に、鋭い口調で言う。その間も絶対に雪村から目を逸らさない。
(逃げ切れるはずがない)
相手は雪村だ。ふたりで逃げたら、追いつかれる。手はひとつ。
(俺が雪村さんを引き付ける)
「センはでも、弱いし間抜けだし。わたしが……」
「夕凪は早く家に帰って」
夕凪の言葉をさえぎる。涙声が胸に痛い。
 途端、ぐっと雪村の重心が動いた。体重が足にかかる。センは横に跳び、そのまま駆け出す。ひとつ、ふたつ、みっつ……数えてちらりと、後ろを見る。雪村がセンを追いかけてきている。
(よし)
雪村の標的はセンに定まった。痛みを押し殺し、地を蹴る足に力を込める。
(とにかく夕凪から離れないと)
向かう先は、猪のクルイが死んだ場所。走っているのに、ひやりとした。後ろから伝わってくる殺気。ふり返らずとも雪村との距離が詰まっていくのがわかる。
 猪の死体が見えてきた。額に突き刺さるセンの刀。手を伸ばす。
(もう、すこし……っ)
見えるはずもないのに頭の中に、雪村が刀を振りかざす様がよぎる。首筋に鳥肌がたつ。
 柄を掴む。後ろからの殺気が強くなる。
 その後の行動はもう、ほとんど本能だった。
 柄を持ったまま猪の死体を飛び越える。地面にごろりと転がり、その勢いで刀を引き抜く。もう一度地面を転がり、すばやく立ち上がった。
 雪村に対峙し、刀を構える。
(今からが本番か、ったく)
腹の傷にはこんな動き、たまったものじゃない。すでに息が上がっている。対して雪村は、猪の体に刺さった刀を引き抜いていた。避けていなければ、センがいた場所だ。雪村の息は少しも乱れていない。
 雪村は無造作に間合いを詰めてきた。おおざっぱに見えるのに、隙がない。雪村を睨み付けながらも、頭では違うことを考えている。刀を持った時から、思考は冷め、傷の痛みも引いていた。
(誰だ、雪村さんをクルイにしたのは)
雪村がセンに斬りかかったのは単なる乱心ではない、クルイになったからだ。クルイになった以上、クルイにした狂環師がいる。
(誰だ……)
その狂環師を殺さない以上、雪村は狂ったままだ。
 狂環師を殺さなければ、クルイは元の道を歩けない。
「ちっ、くそ」
 思わず舌打ちした隙に、雪村が首めがけて刀を振り下ろしてきた。ぎりぎりで弾く。
キン
と澄んだ高い音と火花。咲く火花に見とれる間もなく、後ろに跳ぶ。雪村の第二撃が、空気をなぎ払っていた。
 三撃め。空薙いだ刀が、いつの間にか上段からの打ち込みに代わっている。
キィンッ
「ぐっ」
峰で受け止めたが、力んだ拍子に脇腹から血があふれた。なんとかはじき返し、がら空きになった雪村の腹に蹴りを入れる。雪村が仰向けに倒れた。
 雪村に背を向け、また走りはじめる。
(雪村さん、あの速さは反則だろ)
あまりにも速くて、こちらが手を出す隙がない。
 雪村が追ってくる。
(走るのも速いな……どっかに狂環師いないのかよ)
センは最初から雪村を斬る気は無い。仰向けに倒れたときなら、雪村を殺すのは簡単だった。ただその白い喉元に刀を突き立てれば良いだけなのだから。
 でも、それでは。
(夕凪が悲しむから)
雪村を殺した先に夕凪の涙があるなら、それは何の解決にもならない。
(狂環師を、殺さないと)
口の端を噛んだ。
 簡単な話だが、実現はとても難しい。一度クルイにしてしまえば、別に狂環師はそばにいなくても良い。むしろ狂環師がクルイにした人間や動物とずっといる方が珍しいだろう。
(この辺にいたとしても、呼んで出てくるわけないしな)
どうすればいいかわからない。
 気づいた時には遅かった。
 雪村がいつの間にかセンの横にいて、それこそ、目にも止まらぬ速さでセンの足元を狙っていた。鋭い突き。かわせない。足の甲を斬られ、つんのめる。無意識の内に、そのまま前に転がっていた。
 一瞬前までいた場所に、雪村が刀を振り下ろしている。深く地面に刺さる刀。あれが自分の体に刺さっている様が容易に想像できた。
(くそ……)
なんとか立ち上がるが、きちんと刀を構えることができない。手が震える。目の前にいる雪村の姿さえぼやける。
(やばいなぁ)
痛みが徐々に戻ってくる。刀を強く握ろうにも力が入らない。もう、だめか。
(夕凪さえ逃げてくれれば、俺なんてどうでもいいんだけどな)
 逃げろ、と言ったのに。夕凪はまださっきの場所で座り込んでいる。ここでセンが殺されたら、夕凪も殺される。
(そんなの、だめだ)
体に残った力全てを腕に集め、刀を握る。
(夕凪を守る)
きっ、と雪村を見据えようとした時――すでに刀が手を離れていた。
(え?)
あまりに速い。一瞬遅れて、刀を弾かれたのだと気づく。
 雪村はすでに次の体勢に入っている。上段に構えて、袈裟がけに――。手で庇う暇もなく、無意味にただ、目をつぶった。
 …………。
(……あ、れ?)
うっすら目を開けると、目の前に雪村の姿。刀は振り切られているから、確かにセンは斬られたはずだ。それなのに。
(どうして)
傷が浅い、浅すぎる。着物と薄皮一枚を裂いただけ。どう考えても、良くて虫の息、という斬撃だったのに。
 自分が生きていることに驚いて、力が抜ける。尻もちをつくように地面にへたりこんだ。
 雪村は止めを刺すでもなく、冷やかな白い瞳で、じっとセンを見下ろしている。
(もしかして)
ちらりとひらめいた、かすかな望み。
「雪村さん」
センも雪村をまっすぐに見つめ返す。命を乞うわけではない、恐怖を伝えたいわけじゃない――ただ、信じて。
 雪村が刀を振り上げた。避ける気はない。
(信じよう)
雪村から目を逸らさない。
 雪村が振り上げた刀身に、真白い月光が光る。
 遠くに夕凪が見える。こっちに向かって走ってくる。逃げろと言ったのに。
 雪村が、刀を振り下ろす。
「雪村様ぁーっ」
 夕凪の叫びが、悲しく『白の地』に轟いた。



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