千。



白野兎の想いうた*2  ||シロノウサギ ノ オモイウタ

「逃げろ、夕凪」
 後ろから聞こえたセンの声に、はっとした。起きたのか。
(セン……)
センは夕凪に逃げることを許した。いや、逃げろと言った。
(ごめんね、セン)
夕凪は決意する。
(わたし……センの言うこと、聞けないや)
「ああぁああぁぁぁぁあーーーっ」
怖くて目をつぶった、けれど刀を振り上げる。夕凪は逃げなかった。
 振りおろそうとした時、
「馬鹿」
耳元でセンの声。そっと手に、センの手が重なる。冷たい手。夕凪の手が追いつかないくらい早く、センは刀を振り下ろした。
 刃が骨を砕く感触と痺れが手に走る。踏ん張る間もなく後ろに吹き飛ばされた。
「うっ」
腹の辺りが温かい血で、じわじわと濡れていく。血の匂いが鼻をつく。
 夕凪はそっと目を開ける。目の前には、口からぼたぼた血を吐く猪の顔。目と目の間に深々と刺さる刀。白い目はかっと見開かれ、夕凪を睨んでいる。その目から逃れるように下を向き、ぞっとした。猪の牙が、夕凪の寝間着の帯に刺さっていた。小指の先くらいだから肌には届いていないが、もう少し深かったら大きな怪我になっていたかもしれない。最悪、死んでいた。
(わたし、生きてる)
「あ、あぁうぅ」
 安堵やら恐怖やらで上手く頭が回らなくて、涙ばかりがぼろぼろと流れてくる。
「ったく、夕凪……どうして逃げなかった」
すぐ後ろでセンの声が聞こえる。後ろを見上げると、センが少し怖い顔をして夕凪を見ていた。突き飛ばされた夕凪を、センが抱きとめてくれた格好だ。
「セン、大丈夫?」
「馬鹿」
恐い顔のままセンが言う。いつものセンと様子が違う。
「夕凪ひとりなら、逃げられただろう? 死んでたかもしれないのに、どうして」
確かに夕凪の力だけで振り下ろしていたら、クルイが死んでいたかわからない。
「だって、センが」
気が弱くなって泣いているから、上手く理由が言えない。
「だってじゃない! 俺のことなんてどうでもいい!」
大声にびっくりして、首を縮める。まさかセンに怒鳴られるなんて、予想していなかった。
 ふいにセンの声が小さく、細く震える。
「俺のことなんてどうでもいいから……夕凪が怪我したら悲しむ人がたくさんいるんだから……心配させないでくれ」
夕凪を抱きとめるセンの手に、力がこもる。微かに震えているような気がする。
「夕凪が無事で、よかった」
(セン、わたしのこと、心配してくれたんだ)
 嬉しい。嬉しい、けれど――恥ずかしい。恐怖と興奮が冷めてきて、状況が頭に入ってくる。
「ちょ、ちょ!」
(冷静に考えれば、何やってんの、わたしっ)
夕凪は慌ててセンから離れた。
「夕凪?」
センが不思議そうな顔で声をかけてくる。かっと頬に血がのぼるが、その血を無理やり頭にやり怒鳴る。
「『夕凪?』じゃない! 馬鹿はセンでしょう! 何、あの書き置きは? 逃げるためにわざとわたしを襲おうとしたって言うの? 馬鹿っ、本当に馬鹿! わたしは雪村様にセンのことを頼まれてるの。もし何かあったらわたしが罰を受けるって考えてくれなかったの?」
一気にまくしたてた。最後の雪村に罰を受ける、と言ったのは出まかせだ。仮にセンが逃げたとしても、雪村は夕凪に罰を科すような人ではない。少しセンに自分のしたことを分かってほしくて嘘をついた。
 センは唇を噛み、うつむきがちに言う。
「ごめん、夕凪。本当に、ごめんなさい」
「本当だよ」
ふん、と鼻をならし、センを睨む。さっきと逆だ。
「わたしに無理するなっていうなら、わたしに無理させるようなことしないでよ。心配させないでよ。さよならなんて言わないでよ。センに何かあったらわたし、わたし……」
涙が言葉をさえぎる。センはちょっと目を見開き、夕凪を見つめている。泣き顔を見られたくなくてうつむいた。ぽつりとセンが呟く。
「夕凪、心配してくれたんだ……あの、ごめん」
「謝らないでよ」
「……ありがとう、夕凪」
 センの声が優しくて、涙がいっそう出てくる。
(泣くのなんて、久しぶりだ……)
家族を失ったときから、夕凪は強くあろうと決めた。強いから泣かない。強いから恐くない、と自分に言い聞かせてきた。でもそれは、気づいてみれば、とても辛いことだった。
 声をあげて泣いた。猪のクルイと対峙した時とても怖かった。自分が生きていて、ほっとした。センが心配してくれて嬉しかった。そんなセンを見捨てようとした。
「ごめんね」
「謝っちゃ駄目だよ」
「うん。……ありがとう」
顔をあげると、センが困ったように笑っていた。いつものセンだ。夕凪もつられて、涙を流しながらも笑う。しばらく、ふたり、笑い合った。
「セン、歩ける? 手当しないと」
 夕凪は立ち上がり、センに手を差し伸べる。久々に我慢しないで泣いたからか、気分は驚くほどすっきりしている。夕凪の問いにセンは曖昧な笑みを返した。
「うーん、大丈夫……だけど」
「だけど?」
「もう少し、ここにいて良い?」
「どうして」
センの瞳はまっすぐに夕凪を見つめていて、どきりと胸が鳴った。綺麗な瞳だと思った。澄んだ黒目に月の光や星々がきらめいている。
 静かな森を、春の微風が揺らす。さわさわ鳴る葉々の音。『白の地』に注ぐ月の光は控えめに、けれど明るく辺りを照らす。
「夕凪に、話したいことがあるんだ」
 硬い声が真剣さを伝える。ちょっと戸惑ってしまい、手を胸の前で組んだり解いたりした。
 センは妙に真剣で、夕凪はどぎまぎしていたから――『白の地』にゆらりと現れたその人に、ふたりとも気づかなかった。



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