千。



白野兎の想いうた*1  ||シロノウサギ ノ オモイウタ

 神居の森は藍紺の空さえ呑みこむ。月の光もほとんど届かない。夕凪はひたすら駆けた。
(クルイが、いない?)
おかしなこともあるものだ。いくら走ってもクルイのあの、独特な気配が感じられない。不気味なくらい森は静まり返っている。センがいる様子もない。
(セン、どうしていないの)
焦る気持ちが涙となって頬を流れる。自分がどれくらい呆けていたのかわからないが、そんなにセンが遠くにいける時間があっただろうか。
 黒い森の中を走っても、黒い景色が後ろへ流れていくだけ。色がない。暗い、というだけで不安で恐くなる。
(しっかりしろ)
ぎゅっと拳を握り、己を奮い立たせる。
 走り続けていると暗闇の中に、白色がかすめた。何かと思い、立ち止まる。目の端をかすめたのは『白の地』に降り注ぐ月の光だった。
 センが逃げるとしたら、街道に抜ける道をまっすぐ行っただろう。『白の地』に行ったとしても行き止まりだから、すぐ引き返すだろう。どちらにしてもセンは『白の地』にはいないはずだ。
 そう思ったのに、夕凪は『白の地』へ歩いていた。『白の地』は昔神様がいた場所、今でも年に一度豊穣を祈る祭りをしている。その『白の地』から、嫌な気配がする。足を速める。ぴりぴりと頬に刺さる気配。
(クルイ……?)
しばらく進むと、人影が見えた。『白の地』の真ん中に突っ立っているのはセンだった。
「センっ!」
声の限りに叫ぶ。夕凪が叫んだのはセンを見つけた安堵からではない。センが振り向く。表情までは見えない。
「避けてっ」
センの近くにもうひとつ影が見える、猪だ。センはすっと横っ跳びになり猪を避けた。案外身軽い。
「センっ」
 胸を撫で下ろす暇もなく、もう一匹の猪の姿が目に入った。センが避けた目の前へ、牙を向けた猪がすごい早さで突進する。避けられるわけない。
(ぶつかるっ)
ドゴゥッ
鈍い音、嫌な音がした。不安を煽る音だ。センが突き飛ばされる。倒れたセンの腹を踏みつけ、猪は走り去る。
 さっと血の気が引いた。くじけかけた心が、再び姿を見せた猪を見て怒りに燃える。
「このやろうっ!」
矢を番え、引く。またセン目がけ走ってくる猪に向かい、放つ。狙うのは目。目から頭へ貫通させるのが一番確実だ。猪の目は白い。あの猪はクルイだ。
(当たった……よし!)
蝦蟇が潰された時のような声を出し、猪の体が倒れる。
 急いでセンの元へ駆ける。森を出、『白の地』へ足を踏み入れる。あまりの月明かりに一瞬だけ空を見上げ、目を細めた。ずっと暗闇の中にいたから、月とはいえとても明るく感じる。少しほっとした。
「セン」
すぐはっと気づき、センの元へ駆けよる。
「大丈夫っ?」
 センは体をくの字に折り、うずくまっていた。気を失っているようだ。じわりと、気持ち悪さがこみ上げる。吐きたい。
(大丈夫、大丈夫。セン、体は丈夫だって言ってた)
不安を追い払う。それでも手が震えた。
「ごめんね、今構ってられないから」
夕凪はセンの近くに刀を置く。正直、邪魔だ。
「わたしがセンを守るから」
 誰かを守るのは、夕凪の努めだから。よし、と決意しもう一匹のクルイが消えた方へ矢を番えながら近づく。
 がさ、と音がした。夕凪が見当していた場所から少しずれた茂みだ。とっさに音のした方を向き、向いた時には矢を放つ。
 矢はかすめただけだった。猪の耳をそぎ落としただけ。舌打ちする。クルイに有るのは破壊衝動だけ。ちょっとの怪我じゃ逃げ出さない。むしろ、怒り狂う。
ブルォオッ
猪は標的を夕凪と定めた。黒目の抜けた白い瞳が夕凪に向かってくる。すくんだ足を叩き、踵を返す。
 森の中へ入る。クルイになっても習性は変わらないと雪村に教わった。その通りなら猪はまっすぐ走るだろう。怒り狂っている今なら、なおさら。森の中は障害が多い。森の中なら分があると判断した。標的がセンに移らないように付かず離れずの間を保つ。
(暗い……)
本能的な恐怖が襲ってくる。何も見えないのはとても恐いことだと改めて実感する。少しでも月光の射す、葉々のすき間の多い場所を走る。転ばないように慎重に、慎重に。
 だが、どんなに注意しても闇には敵わない。木の根だろうか、何かにつまずき爪先から熱い痛みが駆ける。ふわっと浮く感覚。
「ぐっ」
したたかに打ちつけた両肘。かっと体を熱が巡り、すぐに痛みに変わる。勝手に涙がにじみ出てきた。
どっどっど
すぐ後ろで地面が揺れる。痛みを堪え、必死で横に転がった。鼻先をかすめる猪の爪。獣の臭いがした。
 猪はそのまま夕凪の前を走り抜けた。
どんっ
間もなく、鈍い音がする。ブオォという猪の呻きと、ばさばさという鳥の羽音も聞こえた。
(しめたっ)
どうやら猪はあのままの勢いで木に激突したらしい。目を凝らして見ると、立ってはいるが頭を振り回し、動きがおかしい。今なら簡単にしとめられる。
 夕凪は背に手を伸ばし、矢立に手を伸ばした――伸ばした手が空を掴む。
「え?」
(まさか)
寒気が首筋から背を抜けた。
 矢がない。よく確認をしないまま家を飛び出してきた自分の間抜けさを呪う。
「どうしよう……」
ため息とともに弱音がもれた。恐い。なす術がない。頬に鳥肌。
(このまま逃げれば)
と、考えたそばから首を振る。それではセンが危ない。
(わたしが、センを守らないと)
 猪はそろそろ調子が戻ってきたようで、辺りを見回している。夕凪を探している。
「よしっ」
夕凪は立ち上がり暗い気持ちを切り替え、来た道を走りだす。その気配を察知し、猪がまた追いかけてくる。さっきと同じ図。さっきより少し間に余裕がある。
 『白の地』に出る。目指すはセン。
「センっ」
センはまだ目覚めていないようだ。刀もさっき夕凪が置いたのと同じ場所にある。駆けより、刀を掴む。
「刀借りるね」
鞘から抜いた刀に、一瞬見とれた。月の光を反射して、まぶしいとさえ感じる。
(よく斬れそう)
 センの前に立つ。刀を構え、猪を正面に見据える。猪がすごい勢いで向かってくる。
(本当は、雪村様みたく斬りつけられれば良いけど……)
夕凪はあまり刀が得意じゃない。はっきり言って全然駄目だ。斬った時の感覚が好きじゃないし、思いっきり振りおろしても力が足りず、一発で仕留めることができない。
(だから、刺す)
ぎゅっと刀を持つ手に力を込める。
 センを守るためだ。この際嫌な感覚は我慢しよう。一発で、あのクルイの脳天に、刀を突き刺すんだ。
ドッドッド
地響き、ひづめの音。荒々しく猪が迫ってくる。傷つけることしか考えていない、真っ白な瞳。
 不意に夕凪は恐くなった。心にじわりと染みだす黒い思い。
(どうして、わたしが、センのためにこんなこと?)
失敗したら、死んでしまうかもしれない。
 迫る猪。
(センは、全然関係ない人じゃない)
夕凪には守る人がいる。きく婆や村の人々……センだけが全てじゃない。
 もうすぐ目の前にクルイ。
(強くもないのに、どうしてわたしが)
 構えた刀が震えてかたかたと音が鳴る。いや、震えているのは夕凪の体だ。
「ねえ、セン……わたし、逃げてもいいかな」
今なら、夕凪だけなら、避けられる。夕凪だけは助かる。センのことは知らない。自嘲の笑みが浮かび、嗤った目じりから涙が一筋流れた。
 センを、見捨てよう。



inserted by FC2 system