千。



狂い烏の濡れ羽色*8  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

 どくんどくんと夕凪の胸が鳴る。何が起こったのかよくわからない。
(センが……)
自分を襲おうとしたのか。
「どうして」
どうして、いきなりあんなことを言ったのだろう。
『俺は人殺しだ』
低い声、鈍く光る瞳。思い出すとまた恐怖がよみがえる。
(本当に、センは)
涙があふれてきた。あふれる涙は、家族の思い出を連れてくる。
 夕凪は幼い頃、五人家族だった。父と母と祖母、姉と夕凪。今では三人が死んでしまって一番年寄りのきく婆と一番幼い夕凪だけが残された。
 夕凪の家は代々行商をしていて、半年ごとに森囲と他の村を行き来していた。森囲村の人々は他所者が村に入ることを極端に嫌う。昔は今以上だったそうだ。それは商人であっても同じで、だから夕凪の家が村を代表して村と外の間を取り持っていた。
 夕凪の父親たちが殺されたのも、旅商として村を離れた時だった。夕凪の姉が旅商として初めて村を出た旅だった。三人が旅立つ時、八つだった夕凪は寂しくて泣いていた気がする。それはしばらくのお別れが辛いのであって、半年後三人が帰ってくるのを疑わなかった。姉は少し頬を上気させ笑顔で、行ってくるねと言った。
 それが生きた三人を見た最後だった。
 一月もしないうちに三人は帰ってきた。でも骨になっていた。“コレ”が家族だと言われても、幼い夕凪にはピンとこなかった。ピンとこないまま悲しみを胸の奥にしまい込んだ。
 なるべく触れないようにしてきた傷が、ぱっくりと開く。悲しみが、押し寄せる。
「う、っくう」
(どうしてセン、あんなこと突然言ったの)
唇をかむ。ただの気まぐれだとしたら、最低だ。
(でもセンはそんな人じゃないよね?)
心の内で問いかける。夕凪はセンを信じたかった。涙を堪え、ぎゅっと唇を結ぶ。
(理由を聞かなくちゃ)
 最初から夕凪に手を出すことが目的だったとは思えない。ハチロクから帰ってきた時からおかしかった。何があったというのだろう。涙をぬぐい顔を上げると、目の端にセンの刀が目に入った。
(取りに戻ってくるかな)
ぼんやりと考えて首を振る。センはもう帰ってこない。また一筋、涙がこぼれた。
「セン……」
 センが自分は人殺しだと言ったとき、ただ怖かった。センの唇が自分の顔に近づいてきた時、恐かったけど――嫌じゃなかった。嫌、と言ったけど本当は、嫌じゃなかった。センのことが嫌いじゃない。
(わたし、馬鹿だ)
手で顔を覆う。センを拒まなければよかった。センより先に言いたいことを言ってしまえば良かった、ずっとこの村にいてほしい、と。嫁にもらってとは言わない、ただいてほしい。
(でも言っていても、断られていたかな。センは反対のことを言ったんだから)
 過ぎた後に悔いるから、後悔。今から追いかけても、センには追いつかない。センにはもう会えない。理由も聞けない。夕凪は起き上がり、重い体を引きずりセンの部屋を出る。
 暗い廊下がぎいぎい鳴る。心許なくて、少しふらふらする。
「寝よう」
寝て、全部忘れてしまおう。くよくよしていられない。夕凪はいつでも強くなければいけない。
(わたしは、守らなくちゃいけないものがあるから)
「よしっ」
頬をぺちぺち叩いて気合を入れる。
(センのことは忘れるっ! 一時の夢! 襲われかけたって言っても何も取られたわけじゃないし……うん、忘れよう)
 決心した夕凪の足元に、何かが落ちている。暗闇にぼんやり白く浮かび上がるのは。
(紙?)
拾い上げ部屋に入る。月の光に照らしてみると、その紙には字が書かれていた。真っ先に目に入った文字にひや、と寒いものが体を抜ける。
(セ、ン……? どうして)
たった今忘れようと思った名が、書いてあった。センは夕凪に迫ってきた後すぐに逃げた。これはその前に置いたものということか。
(そう言えば、わたしが部屋に入ったときセンいなかった)
 震える手で内容を読む。
「なに、これ?」
さっと血の気が引いた。寒い。紙をぐしゃっと握りつぶす。こみ上げるのは、怒り。勝手なことを言いやがって。
「絶対連れ戻す」
吐き捨てると弓矢を取り、駆けだす。センの部屋に行き、刀も持つ。
(嫌がったら勝負でもなんでもして、無理やり連れてくるか)
「初めから今夜いなくなる気で、わざとわたしに迫ってきたってことでしょ、これ」
書き置きの内容とセンの行動をふり返ればそういうことだ。迫ってきたのは家を出ていくための計算だった。
(そんなに、ここにいるのが嫌だったの?)
少しだけ胸が痛い気がした。でもそれ以上に、むかっ腹。
「こうなったらひっ捕まえて謝らせるしかないわっ!」
夕凪は家を飛び出した。
 家の前を伸びる道。夕凪は逡巡してから北神居へ走った。
(センが逃げることを前もって考えていたなら、たぶんこっちだ)
突発的に逃げたならすぐ姿を消せる南に隠れるだろうが、それでは来た道を戻ることになってしまう。旅をしているセンにとってそれは得策じゃない、はずだ。
 夕凪は走る。さっきまで怒りで無理やり不安を追い出していたが、黙って走っていると嫌なことばかりが頭をよぎる。
(セン、大丈夫かな)
夜はクルイが増える。森に入ったら嫌でも遭う。クルイの本来は夜。凶暴さを増す。昼間は身を潜めている獣も出てくる。それなのにセンは行ってしまった、刀も持たず。
(なんでわたし、もっと早く気がつかなかったんだよ)
 もしセンに何かあったら。夕凪は自分の間抜けさを罵倒しながら走り続ける。いつもは北神居まで走っても、全然平気なのに今は息が苦しい、胸の辺りが痛い。
 背負った矢立の中で矢がからから鳴った。
「センの馬鹿っ」

   夕凪に宛てる
夕凪、俺は出ていきます。
すごく良くしてもらったのにきちんとお礼ができなくてごめんなさい。
久々に心の底から安らかな気持ちになれた。ありがとう、この恩は一生忘れない。おきくさんにもよろしく。
お礼の代わりにひとつだけお願い。
俺のことは忘れて。
さよなら。
   セン

 書き置きの意味がわからない。
(忘れられるわけ、ないじゃない)
森の方から、犬の遠吠えが聞こえた。もしかしたらこれは、クルイの声かもしれない。
(無事でいて、セン)
センの笑顔がよぎり、涙があふれてくる。
(だって、わたしは、わたしは――)
もう大切な誰かを失いたくないから。涙をぬぐい、ひたすら走る。
「わたしが、守るから」
呟いた決意は、冷たい夜風にさらわれた。
 北神居を貫く道はぽっかりと黒い口を開け、月の光を呑みこんでいる。
 夕凪は森へ入った。
 ――――――。どこかで不気味に、夜鳥が啼いた……。



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