千。



一花笑みの徒戯*6  ||イッカエミ ノ アダソバエ

 赤い夕焼け。ゆっくりと闇が辺りを食んでいく。もうすぐ夜。
 遠くに誰かが立っている。影がずうっと長く、センの方に伸びている。
(千花?)
 それはあの人に似ていた。センは影の方へ走りだす。遠くにいるのに、何故か耳元で聞こえるあの人の声。
――だいじょうぶ、だいじょうぶよ。夜はあなたを呑みこんだりしない。
 そうだ、あの人はこう言っていつも幼いセンを抱きしめてくれた。幼い頃は夜が怖くてどうしようもなかった。
 足に何かが引っかかり、転んだ。何かと思ってふり返り、喉が鳴る。
「ひっ」
闇の手。真っ黒い手がセンの足首を掴んでいる。わらわらと闇から生える黒い手たち。
「千花っ、千花っ、助けてっ」
叫んだ。必死であの人の姿を探すけれど、どこにもいない。
ずりゅ
闇の手がセンを引っ張る。
「やめろっ」
振り向きざまに怒鳴って、目を疑う。
「え」
あの人が、笑っていた。闇の群れの真ん中に突っ立ち、あの人は笑っていた。口の端を吊り上げ、冷たい瞳。
――あなたはまたそうやって、逃げるのね。
 楽しそうにあの人が言った途端、視界が赤に切り替わる。赤、赤、赤、赤。籠める血のにおい。
――逃げられないし、逃がさないわよ。
 赤の中に黒い人影。あの人と、
「父、さん?」
だろうか。父の手には抜き放った刀。きらりと光る。センを押さえつける血に濡れた手々。
(ああ、これは、あの時だ……)
父が刀を、センの腹に突き刺した――――――。



「くっうぅ」
 呻きが漏れる。真っ暗だ。何も見えない。上手く息ができない。
「センっ」
誰かの声が聞こえる。闇雲に手を伸ばした。何かに縋りたかった。センの手を握る誰かの手。温かい。
「センっ、センっ、お腹痛いの? ねえっ、ねえっ、大丈夫!?」
(誰だ、この声は……)
「ちか?」
呼ぶ声が掠れた。
「え? なに」
 うっすら目を開けると、白い顔が闇に浮かんでいる。
(ゆう、なぎ?)
ぼんやりと見える心配顔は、夕凪か。
(千花のわけ、ないか)
ちょっと笑った。
「やっぱりお腹痛いの? 見せて」
 夕凪がセンの腹に手を伸ばしてくる。
「やめろ」
自分でも驚くほど冷たく強い言葉が出た。夕凪の手がぴたっと止まる。
 センもそこで急に意識がはっきりしてきて、ばっと起き上がる。
「あ、えと。ごめん、夕凪」
「ううん、わたしこそ、ごめん」
夕凪がすっと身を引く。何か言わなければと思うのだが、まだ鼓動が早く、上手く頭が回らない。
(あー、もう)
何が何だか分からなくなって、センは仰向けに倒れ込んだ。夕凪が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「セン、大丈夫?」
(夕凪にこんな顔させちゃいけないな)
 無理やり笑う。
「ははは、大丈夫だよ、ほんと。ごめんね、恐い夢を見ただけだから」
夕凪の顔は変わらない。
「セン、お腹を押さえて呻いていたから……廊下まで聞こえたよ。やっぱりどこか怪我しているんじゃない。雪村様呼んで来ようか?」
「いや、大丈夫、本当に大丈夫」
大丈夫、大丈夫と言った言葉が、夢の中のあの人と重なる。
「セン、泣いてるよ」
 夕凪の澄んだ瞳。じっとセンを見つめている。
 心が、揺らいでしまいそうで。
「泣いてないよ」
口元だけ笑って、目元は手で覆った。
「恐い夢を見たの?」
「うん」
夕凪が手を握ってくれる。温かくて、ゆらゆら揺れる。崩れそう。
「子どもの頃ね、恐い夢を見るとよく母さんがこうしてくれたの」
懐かしそうな声だ。
「俺、子どもじゃないんだけど」
言葉とは裏腹にセンは夕凪の手を強く握り返していた。
「うん、わかってる」
夕凪も素直に返事をしたけれど、手を離さなかった。
 春の夜はどこまでも穏やかで静かで、夕凪の手は温かくて、幸せで切なくて。
(俺には不似合いのものばかりだな)
センは自分を嘲笑おうと思ったけれどそれさえも今は面倒で、ただ引き込まれるような眠気に身をまかせた。



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