千。



一花笑みの徒戯*5  ||イッカエミ ノ アダソバエ

 センはきく婆に連れられ、風呂へ行く。
「さっきはありがとうございました、本当に美味しかったです」
「あれだけ食いっぷりが良けれりャ、作った甲斐があるよォ」
きく婆はおおらかに笑うと、何故か立ち止まった。
「さて、この先が風呂なんだがァ、その前に」
 こっちをふり返る。
(な、なんだ)
センはちょっと後退った。きく婆の顔はにたりにたり、とからかうよう。
「センさんよォ」
「は、はい」
「お夕と一緒になる気はないかいィ?」
「…………はい?」
きく婆はにっこりする。
「おお、『はい』かァ。ありがてぇなァ」
(いやいやいやいやっ)
「そう言う意味じゃなくてっ! あの、えと。俺のことをからかってますか?」
「いんや、このお婆は大真面目だよォ」
喋り方のせいか、表情のせいか、あまり本気が伝わってこない。
 ふと、面白げだったきく婆の目が不思議な色を帯びる。憂いと優しさと、不安のような色々。複雑すぎでセンにはよくわからない。
「悪かったねェ、いきなり。ただセンさんがあまりにも良い人だから、お夕のことを任せたくなったんだァ」
センは苦笑する。
「良い人じゃないですって。夕凪さんにはもっとちゃんとした人が良いですよ」
「どぉだろうねェ」
ため息とともにきく婆は笑う。さっきまでとは違い、つらそうな笑みに見えた。
「見てもわかると思うけどォ、家にはお夕とこの婆しかいねぇ。婆は婆だ。いつまでも生きているわけでねェ……そうなったとき、この家にお夕が独りになっちまうのが、婆は悲しくてなァ」
目の端に、きらりと涙が光った。
「お夕にもちらほら話はあるんだァ、けどあの子は全部断ってる。どれも村を離れなくちゃならねぇから……この婆のせいだ。センさんにこの村に住んでくれとは言わねェ。あの子を連れてってくれて良いから、どうか嫁にもらってくれねぇか。センさんが本気で言えば、あの子もここを離れる決心がつくと思うんだァ。センさんなら」
 きく婆は半分曲がっている腰をさらに曲げて頭を下げた。センは慌ててきく婆の肩に手をやる。
「おきくさん、頭を上げてください……そんなの、買い被りですよ」
「そんなことねェ」
きく婆はセンを見る。そこにあるのは必至の目。
(どうしてさっき会ったばかりの俺に……)
「勘だァ。センさんしかいねェと思ったんだ」
心を読んだようなきく婆の言葉。
 揺らいだ。
明るくて笑顔が似合う夕凪と、人をからかうのが好きな優しいきく婆――と自分。この村で平凡に、つまらないくらいのどかに暮らせたらどんなに幸せだろう。きっと夕凪が笑ってくれるだけでセンは幸せだ。幸せな妄想が頭の中を駆け、去っていった。
「だめですよ、おきくさん」
 センは体をかがめ、きく婆と目の高さを合わせる。ゆっくりと首を横に振る。
「俺じゃ夕凪さんを幸せにできない……絶対に」
きく婆はくしゃりと笑う。
「そうだよなァ。いきなり突飛なこと言って悪かったなァ。この婆も歳だ。耄碌(もうろく)しちまってよォ……風呂にゆっくり入って、体を休めてなァ」
口早に言い、センの横を通り過ぎていく。きく婆が笑ってくれたのはきっと、センを困らせないための精一杯の優しさ。
(ごめんなさい、おきくさん……俺じゃ夕凪の笑顔を守れない)
 それどころかもしかしたら、奪ってしまうかもしれないから。
 センは唇の端を噛んだ。さっき切った傷が開きまた血の味が広がる。美味しい夕飯の味をかき消すくらい濃い血の味。
 涙がこぼれそうだったから、センは足早に風呂へ向かった。



 風呂を出て廊下を歩いていると、反対から夕凪が歩いてきた。
「あ、布団敷いておいたよ。薬も新しいの持っていこうか? 落ちちゃったでしょ、お風呂入ったら」
心配そうな夕凪の顔。胸に重いものが迫ってくる。
「ありがとう。薬は大丈夫、俺、体だけは丈夫だから」
嘘笑いをする。これだけは得意だ。なるべく夕凪の顔を見ないようにすれ違う。
「あ、ねえ、セン」
呼びとめられた。ふり返ると、夕凪の頬が何故かちょっと赤い。夕凪は気まずそうに言い淀んでから、口早に言った。
「婆さまが何か変なこと言わなかった?」
センはびくりと体を動かした。夕凪が見咎めて、もう、とため息をつく。
「センにまで変なこと言ったのね、婆さま……気にしないでね、婆さまは久々にお客さんがきてはしゃいでいるだけだから」
 苦笑し、夕凪が去っていく。
「おやすみなさい、セン」
センは夕凪の後ろ姿にぼんやり返事をし、あてがわれた部屋に戻った。
 センはとっさに自分の感情に嘘をつくのが上手くない。得意な嘘は笑うことだけ。
 布団の上に仰向けになり天井に手を伸ばす。
(夕方だって『ハチロク』と聞いて驚かなければ……いや、雪村さん相手じゃ逃げられないか)
ため息をつく。袖が下がり、白い腕が夜に浮かぶ。
(これお父さんのかな?)
着替えとして出してもらった鼠色の単衣。センにはちょっと小さい。
(もう亡くなっているのか……)
きく婆の涙がよぎる。
「俺に、何ができるんだよ」
何もできない。夕凪にしてあげられることなんてない。早々にここを立ち去って、夕凪やきく婆の記憶から消えるのがせめてものこと。きく婆の望みとは反対。
 春の生温かい空気にまどろむ。
(明日には、ここを出るんだ)
夕凪ともきく婆とも、二度と会うことはないだろう。
(今日は良い日だった)
たぶん一生の中で一番幸せな日になる。
 仮初めの安寧が切ない。ふっと腕の力が抜けて腹の上に乗る。ちょうどクルイに追突された場所だ。鈍い痛みが走る。またため息。
 ため息に連れられたように眠気が押し寄せる。思っていた以上に疲れが溜まっているらしい。
 いつの間にか、センは眠っていた。



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