千。



一花笑みの徒戯*3  ||イッカエミ ノ アダソバエ

 ぴたん、襖がしまりセンは部屋の中でひとりになる。顔から笑顔が抜け落ちる。
「夕凪、かあ」
(優しい娘だ……)
優しくて、良い娘だ。春の日差しみたいに、周りの人間の気持ちまでゆるゆるとほぐしてくれる。
 夕凪は良い娘だ。
(俺なんかと、関わっちゃいけないくらい)
センは自分のことを嗤ってみた。
 短くため息をついて、思考を切り替える。夕凪が置いていった薬を適当に手の甲に塗る。ひんやりと傷口に染み、青草の匂いがした。
「さて、と……これからどうしようか」
呟いてみたが、もう答えは出ている。
(明日の朝には、ここを去らないと)
ここはのどかな村のようだ。夕凪は良い娘だ。きく婆も優しい。
 だから。
(俺はここにいちゃいけない)
ごろんと横になり、天井を見上げる。瞼を閉じ、拳を固める。真っ暗中、先程の森での出来事を思い出していた。クルイ猪の白い目玉が闇に浮かび、くちびるの端を噛む。あのクルイは、おかしかった。
「あれは、俺を殺そうとしていた」
 荒々しい息遣いの中で唯一、冷たく光る白目。顔をつぶされても消えない破壊衝動、殺意は、間違いなくセンに向けられていた。
「あのクルイは、おかしかった」
いや、とすぐに自分の言葉を否定する。
(クルイなんて、みんなおかしいか)
くくっと喉を鳴らした拍子に、口の端を噛み切ってしまった。ふっと溢れた血玉が流れ、口の中に鉄さびの味が広がる。
 ぞくり、とした。
己の中の、認めたくない部分が疼く。鼓動が速くなる。体が熱い。
(落ちつけよ、くそ……)
自分に言い聞かせる。深い呼吸を幾度か繰り返した。
 落ち着いてきたら今度は、目じりや喉の奥からじりじりと何かが迫ってきた。
揺らいでいる。
ほんの少し人の優しさに触れて、心が、揺れている。たやすく揺れてしまう自分の心が許せない。夕凪の優しさがあの人と重なって、あの人を思い出した。
「勘違い、するな」
 口に出して言い聞かせないと、この揺らぎがどんどん大きくなって壊れてしまいそうだった。
「勘違い、するな」
(俺は人と関わっちゃいけないんだ……)
自分で自分に突きつけた事実。
 わかりきっていたはずなのに、きっと心が揺らいでいるから――温かい水が、頬を伝った。
 ――――――。
「センさーん、ご飯だよー」
 夕凪の声がする。薄暗い天井の木目が目に入る。
(寝ていたのか?)
無意識に目の端をこすると、水が指に付いた。
(涙、か……? 跡残っていたら嫌だな)
ごしごし無理やりこすると、目が痛くなった。
「寝ちゃったの? おーい」
「あ、起きてるよー、起きてる起きてる……」
 返事しながら起き上がるのと同時、夕凪が襖を開けた。夕凪がセンに笑いかける。
「ご飯だよ」
「うん、わかった」
センはわずかに夕凪から目を逸らし、立ち上がった。夕凪のあとについて、廊下を歩く。
「今晩はね、婆さまが煮物を作ったの。おいしいんだよ、婆さまの煮物」
「楽しみだなー。夕凪はなにか作ったの?」
「味噌汁と菜の花のお浸し。さっき採ってきたばっかりだからね、新鮮なの」
へえ、と答えた時、ちょうど腹が鳴った。かっと頬に血がのぼる。振り向いた夕凪と目が合い、自然と笑みが浮かび、笑いあった。
 他愛のない会話が、切ない。
(ああ、なんて)
自分の本当とはかけ離れ過ぎていて、笑ってしまうくらい……幸せなんだろう。
 夕凪が障子を開ける。途端、いい匂いが鼻をついた。
「おぉ」
膳の上の夕飯は色とりどりだ。煮物の深みのある色、飯に混ぜてあるのは筍だろうか。夕凪が作ったという菜の花のお浸しの緑が、一際鮮やかで、目をひいた。
 実は、ここ数日、水ぐらいしか腹に入れてない。久々のごちそうを前に、また腹が鳴った。
「あれェ、センさんは腹減ってるなァ、さあ、たんとあがりンさいな」
「はは、ありがとうございます」
頭の後ろを掻きながら、膳につく。煮物やみそ汁から立つ湯気が、鼻孔と空きっ腹をくすぐる。
(うわー、本当美味そう……)
「頂きます」
 ぺっこり頭を下げ、よだれが垂れる前に煮物に手を伸ばす。食べる。思わず、
「おいしい!」
と叫んだ。きく婆と夕凪が目を丸くしてセンを見る。その視線に気づき、赤面する。
「いや、すみません。本当に美味しかったもんだから、つい」
「嬉しいなァ! ありがとうねェ、センさん」
きく婆が大きく笑った。本当に美味しい煮ものだ。味がよくしみていて、噛むごとに美味い。
(……お世辞を言う羽目にならなくて、本当に良かった)
 心の底からそう思った。センはとっさに嘘をついたり「上手いこと」を言ったりするのが得意じゃない。きく婆に今晩泊まる経緯を説明する口上だって、森からの道中ずっと考えたものだった。だから、もし夕飯が口に合わなかったらどう褒めようか、などと失礼なことを考えていた。心のこもらない褒め言葉が全て吹き飛ぶくらい美味しくて、本当に良かった。
「ほれ、センさんやァ、こっちも食べてみてくれな。お夕が作った菜の花のお浸しだよ」
 にこにこと言われ、口に含む。
(これは……)
ちょっと固まってしまう。
「美味しくない?」
夕凪が不安そうな顔で聞いてくる。センは首を横に振り、夕凪に笑いかける。
「いや、すごくおいしいよ。優しい味だ……きっと夕凪が作るからだろうね」
自然とほほ笑んでしまうような、春の日だまりのような、優しい味。
「なっ、え、ちょっと何言ってるの!?」
夕凪の顔は何故か真っ赤だ。その隣ではきく婆がにやにやしている。
(どうしたんだろう?)
「センさんは、お夕の味付けが気に入ったかェ?」
「はい。とっても好きです」
「だぁー、もうっ」
「これ、お夕、お行儀が悪いェ」
夕凪が床を叩き、きく婆はけらけら笑っている。
(平和だなあ)
センもつられて笑い、菜の花のお浸しを口に入れる。やっぱり、とても優しい味がした。



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