千。



一花笑みの徒戯*2  ||イッカエミ ノ アダソバエ

「ばばさまー、ただいま帰りましたよー」
 夕凪は家中に聞こえるよう大きな声で呼びかける。すぐに、廊下を鳴らし夕凪の祖母・きくが現れた。
「お夕!」
きく婆は夕凪の前で一度立ち止まり、それからぎゅっと夕凪を抱きしめた。
「ちょ、婆さま」
「心配したェ、お夕、帰ってくるのが遅いからァ」
(たしかにいつもよりもだいぶ遅いか)
 山でちょっと野草を取ってくると言って家を出てから、すでに一時(約二時間)も経っている。近場の森に行って帰ってくる時間としては長い。
「婆さま、ごめんなさい」
しゅん、となって謝る。きく婆にはもう、夕凪しかいないのだ。
 センと目が合う。センは目をぱちくりさせ、夕凪たちのことを見ていた。
「あ、あのね、婆さま、センさんを……この人を連れてきたから遅くなっちゃたの。今晩、泊まっていくから」
なんとなく恥ずかしくなり、きく婆の肩を離しつつ言った。
「あれェ、こちらは?」
 きく婆は今までセンの姿が見えていなかったらしい。目を丸くして大柄のセンを見上げている。きく婆の目がセンの腰の刀に止まり、表情が硬くなる。
(怪しい人じゃないって、説明しないと)
どこからどう説明しようかと考えはじめた時、センが口を開いた。人当たりの良い笑みを浮かべている。
「俺はセンという旅の者です。森でクルイに襲われていたところを夕凪さんに助けられました。それで、怪我の手当てをしてくださるということで、図々しくもお邪魔したという次第です」
「うん、そういう次第、次第」
何かの口上のように流れる言葉に続けて、夕凪もうなずく。
「あれェ、クルイに……そりゃ災難でしたなァ。何にもないけどよ、どうぞゆっくりして行ってくださいなあ」
 クルイ、と聞いた途端にきく婆のセンに向ける視線が同情的なものに変わる。
「婆さま、わたし着替えてくるから、センさんのことお願いね」
きく婆にセンを頼み自分の部屋へ行く。後ろから、きく婆があれこれセンに言っているのが聞こえる。もともと、きく婆は世話好きなのだ。
 部屋に入るなり夕凪はひとつため息をついた。袴と筒袖を脱ぎ、普通の小袖に着替える。
「セン、かあ」
(悪い人じゃなさそうなんだけど、変な人だよなぁ)
 クルイに襲われて死にかけたというのに、もう落ち着きを取り戻している。普通、恐怖というのはもう少し残るものじゃないのだろうか。
(それともクルイに襲われ慣れているのかな……旅をしていると言っていたし)
自分で考えたことが嫌で、舌打ちする。
「旅、といえば。荷物が少ないよね」
暗い思考を追い払うために呟く。
 センは荷物が少ない。一番目につくのは黒塗りの刀。鞘も柄も全て黒の、立派な刀だ。その他には小さい包みをひとつ肩にかけているだけ。
(どう考えても一人旅にしては荷物が少ない気がする)
「それに――」
 今さらになって少し気になる、センの言葉。あの時のセンの瞳は、やけに真剣味を帯びていなかったか。
『俺みたいな素性の知れない奴を泊めるなんて、危ないよ』
何が危ないと言うのか。セン自身が夕凪やきく婆に危害を加えるとは考えられないし、考えたくない。
(すごくいい人そうだもん、疑いたくない)
 と、なると。
(誰かがセンを狙っているってこと?)
その誰かの襲撃に夕凪たちが巻き込まれたら危ない、と言いたかったのだろうか。
 ふとセンの笑顔が脳裏をよぎる。えへらと気の抜けた、間抜け面。
「そりゃ、ないか」
思わず笑ってしまう。本人の行動に関係なく狙われる人物といえば夕凪の思いつく限り、国の偉い人ややんごとなき家の若君だ。
「センはどっちにも見えない」
(よくて、お屋敷の鶏の世話係かな)
世話をすべき鶏に追いかけられているセンの姿が思い浮かび、ふき出す。
 げらげら笑っていると、すいっと障子が開いた。
「お夕」
はあ、とため息を吐くきく婆がいた。顔には「呆れた」とくっきり書かれている。理由はわかっているので、ぴたっとげらげら笑いを引っ込め、作り笑いを向ける。
「若い女がげらげら笑うもんじゃあねぇよォ。みっともねェ」
「わ、わかってるよ。ばばさま」
確かに落ち着いて我が身をふり返ってみると、恥ずかしい。
「でも、お夕がそんなに楽しそうにしているのも久しく見たねェ」
 目を細め、きく婆は夕凪を見た。口元には穏やかな笑み。
「センさんには感謝しねぇとなァ」
「え、なに、婆さま?」
「いーや、なんでもねェ……ほら、さっさとセンさんの手当てをしてきィさい」
からからと笑いきく婆は薬箱を夕凪に押し付ける。
「あー、はいはい。わかったよ」
きく婆に笑顔を返し、夕凪はセンの部屋を目指した。
 センを通した部屋の前で軽く一息つく。
「センさーん、いいー?」
声をかけ、返事を聞いてから襖を開ける。縁側に面した場所にある客間は夕日が射しているので廊下より明るい。夕焼けの赤さに、思わず目を細める。
 センは部屋の真ん中で、手持ちぶさたそうに座っていた。夕凪と目が合うとどこかほっとしたように笑った。
「あんまり広い部屋だから落ち着かなくって。立派な家だね」
「そんなことないよ、ただ古いだけ。どこ怪我してる? ちょっと見せて」
センの前に座り、傷を確かめる。
「ええと、鼻の頭とあと手の甲にも擦り傷……他は?」
「……あーと、腹を打ったのが一番の怪我、といえば怪我かな。忘れているみたいだけど」
「あ、そうか。センさんがあんまりにもぴんぴんしているから……わたし」
しまった、と手を口に当てる。センが苦笑する。腹のことを忘れるなんて、自分でもどうかしていると思う。でも本当にセンはぴんぴんしているのだ。
(すごい……体、丈夫なんだなぁ)
「まあ、まず鼻から手当てしようか」
 夕凪はそう言って、手当てを始める。といっても森から取ってきた野草の汁を塗るくらいしかできないが。
 会話がなくなる。
「……そもそも、センさんはなんであんな森の中にいたの?」
気まずい静けさが小恥ずかしくて聞いてみた――が。
(何となくで聞いちゃったけど、けっこう大切なことなんじゃない、これって)
 森囲村は本街道からはずれた場所にある。わざわざこの村に用がない限り、まずこの村にたどりつくことはない。本街道は太い一本道だし、森囲村へ続く道は見落としてしまってもおかしくないくらい細い。普通に歩いていて道を間違え迷うということはない。様子を見る限り、センはこの村に用事があるようにも見えないし。それなのにどうしてセンは神居の森でクルイに襲われていたのだろう。
「まあ、灼尊さんに声をかけられたというか、追いかけられて……」
 そのときのことを思い出しているのか、センの顔に苦い笑みが浮かぶ。
「灼尊どのに?」
問い返す声が思わず鋭くなった。
「いきなり呼びとめられて、『怪しいな』って」
「ふーん、そうなんだ。いきなり? センさん何も怪しいことしていなかった?」
「う、うん。普通に歩いていただけ……いつもはそんなことする人じゃないの? こう言っちゃ悪いけど、けっこう……向う見ずな感じの人に見えたけど」
「確かに、けっこう考え無しなところはある、けど……まあわたしもあんまり灼尊どののことは知らないんだけどね。初めて会ったのが三月前だし」
「三月前?」
センが意外そうな顔をする。
 夕凪は頷く。
「うん、雪村さまたちは三月前に森の隅に小さな詰め所を建てたの」
「それにしては夕凪さん、雪村さんのこと慕ってるよね」
「わたしよく雪村さまのところに弓を教わりに行ってるの。雪村さまって武術全般に通じているんだよ」
嬉々として夕凪は話す。雪村は尊敬する人だから、雪村の凄さを誰かに話せるのが嬉しい。
「ふーん、そうなんだぁ」
センが微かに笑って返事する。目の端になぜか意地悪気なものが含まれている。
「そりゃあ雪村さんくらい綺麗な顔していたら、毎日でも見に行きたくなるよねぇ」
「なっ!」
頬に血が上り熱くなる。確かに雪村を初めて見たとき、あまりの美しさにしばし呆然としてしまったが――がっ!
「わたしはそんな目的で雪村さまのところに行っているわけじゃないのっ! わたしは、弓の――っ」
「わかってるよ」
 センの静かな声が、夕凪の言葉をさえぎった。センの顔があまりにも静謐で、どきりとした。
「……わかってるよ」
センはもう一度くり返す。
「夕凪さんの弓の腕がすごいことはわかった、さっき森で助けられたとき。雑念があったら、無理だね、あの正確無比な弓は」
(センさん)
「それに、雪村さんの方も邪念があるような人を近くに置くような人には見えないし……ぱっと見だけど」
ちょっとセンのことを見直さなければいけない。あの短時間で、あの状況で、ここまで人のことを観察していたとは。
(センさんって、すごい人なんじゃ……)
 そう思って見つめていると、ふにゃりとセンの表情がゆるみ元に戻った。目がかち合う。
「ははっ、ごめんごめん。夕凪さんがかわいいから、ついからかいたくなっちゃったんだよねぇ」
「うっ、ぶっ!!」
センの言葉に耳を疑う。同時に体中を熱い血が巡る。
(い、今なんて言った?)
どっどっど、心の臓がうるさい。
「夕凪さん、どうした? 顔色が……」
顔色を変えさせた本人――センが顔を覗き込んでくる。
「あ、の!」
 たまらなくなって夕凪は声をあげた。近づいてきていたセンの顔がぴたりと止まる。目の前に、センの顔。
「わ、わたし……夕飯の、婆さまの手伝いしないといけないから。あとは自分でやってくれる? ごめんね」
早口にそれだけ言って急いで立ち上がる。
「あの、夕凪さん」
名前を呼ばれ、また胸が高鳴る。
(なんか変だ、わたし)
 しかし、どきどきと鳴っていた夕凪の心は、センの瞳を見た瞬間ふいに冷めた。やけに冷たくて怖い瞳が、そこにはあった。
 なぜか薄寒くて鳥肌が立ち、頬に手を当てていた。センが聞いてくる。
「本当に、いいの?」
センの瞳の奥に淋しさみたいなものが見えた気がした。だから、だろうか。
「しつこいなぁ、良いって言ってるじゃん」
夕凪は普通に振る舞うことができた。
「あ、それとわたしのことは夕凪って呼んで。さん付けって堅苦しいでしょ?」
夕凪は普通に笑いかけることができた。
 センが目を少し見開く。
「……ありがとう」
センは優しい目をして笑った。続けて、俺のことも呼び捨てでかまわないよ、と言ったので夕凪もうなずく。
「じゃあ、夕飯の時間になったらまた呼びにくるから」
 夕凪は、センの部屋を出た。
(セン、かぁ)
なぜかわからないけれどその名を唱えると、心がとくりと鳴った。



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