千。



一花笑みの徒戯*1  ||イッカエミ ノ アダソバエ

 夕凪の住む村は森に囲まれている。村の名は森囲(もりい)、森の名は神居(かみい)。
 昔この地の森には神が宿るとされた。いつしか人々は神居の森の真ん中に社をたて、神を祀ったという。森囲村の始まりだ。村を境に森は、北と南にわかれた。
 村の人々は商人や他所者が森に入るのをひどく嫌った。そんな事情があり、この村は今でもほとんど人の行き来がないのだ。
「まあ、眉唾な話だけどね」
夕凪は祖母に聞いた昔話を、隣を歩くセンに話していた。夕暮れの道端。
「なんで?」
センが不思議そう聞いてくる。雪村たちと別れた後、センは「昔話があったら聞かせてほしい」と言った。自分から聞きたいと言うだけあって、興味があるようだ。
「だって、この村に神を祀った社なんて無いんだもの。そりゃ、ひとつも無いってわけじゃないけどさ、そんな昔からあるものじゃないし……それなのにおかしいでしょ、こんな昔話があるなんて」
「ふーん、それは確かに。なんでだろう」
「さあ、本当にね」
 そのときふとセンの顔を見て、夕凪はぎくっとする。
「あ、センさん」
思わず立ち止り、呼びとめる。ふり返ったセンの顔を見て、軽くため息をついた。
(わたしとしたことが……今気づいて、良かった)
「センさん、顔に血が付いてる」
「え」
センがあわてて頬を触る。頬や鼻のあたりがべっとりと赤い。猪の返り血だろう。森の中ではいろいろ必死だったし、歩き始めてからはセンの顔を見ていなかったから気づかなかった。
「そんな顔じゃ、婆さま驚いちゃうから」
 道脇を流れる小川で手ぬぐいを濡らす。自分より一尺近く高いセンの顔に手を伸ばし、ごしごし拭く。
「自分で出来るから」
「いいよ、ほら」
「いっ」
センが声をあげた。見ると鼻の頭に赤い引っかき傷がある。
「さっき森の中で転んだときだ」
小恥ずかしそうに笑って、センが頬を掻く。思わず夕凪も笑う。
(センさんって、とろいなぁ)
顔を拭き終え、また歩きはじめる。
 会話がなく、黙々と歩いた。
(なんか話すことないかなぁ、好きな食べ物でも聞いてみようか、一応)
「夕凪さん?」
口を開きかけたそのとき、話しかけられた。少し驚いたが、うん、と首をかしげてセンを促す。
「本当に今晩、泊めてもらっていいの? 俺みたいなのを」
「え」
 夕凪は思わず立ち止まり、センを見つめる。センは困ったような、心配するような顔をしている。
「センさんは、雪村さまに頼まれたお客人だもの。泊まっていきなよ」
「雪村さんを慕っているのはわかるけど……俺みたいな素性の知れない奴を泊めるなんて、危ないよ」
(センさんが、危ない?)
 しんと静寂、一瞬後、思わず夕凪はふき出した。
「え、なんで笑う?」
センが目をぱちくりさせる。その様子がおかしくて、また笑いがこみあげてくる。
「だ、だって、センさんってば自分でそんなこと言うんだもん。おかしいよ、ははっ」
「いやいや、俺、けっこう本気で……」
まだ言い募るセンの背中をばんばん叩く。
「ははっ、はは。本当に悪い人はね、そんなこと言わないの。黙って盗んで黙って出ていくんだよ」
「い、痛い痛い、夕凪さん」
「はははっ」
 夕凪は愉快だった。
(こんなに笑ったの、いつぶりだろう)
夕凪はセンを置いて駆けだす。顔はまだ笑ったまま。
「ほら、センさん! はやくおいでよ。わたしが泊めたいから泊めるんだから、遠慮はいらないよ」
「あ、夕凪さん、待って」
情けない声を出してセンが追ってくる。
 夕凪は、笑った。



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