千。



誑き花の闇うつろい*3  ||アザムキバナ ノ ヤミウツロイ

「では、センさん……だよね? わたしの家に行こう」
「え、いや」
 夕凪がセンの着物の袖を引っ張る。センは戸惑ってしまう。
(ったく、人の家に泊まるなんて冗談じゃない)
どう言ってこの場を立ち去ろうかと思案していると、思わぬところから助けが入った。
「こんな怪しい奴を、夕凪の家に泊め置くのは良くないです!! 家には夕凪とお婆どのしかいないのですよ! この男、何をしでかすかわかりません!」
灼尊だ。怖い顔をしてセンを睨んでいる。夕凪はというと、こんな灼尊の言動はいつものことなのか、平気な様子で笑っている。
(何をしでかすかわからないって……そんな、襲ったりはしないけど)
センは黙って苦笑いした。雪村は少し顔をしかめる。
「仕方ないだろう、センは怪我をしているし、怪我をさせたのはお前なのだから」
「そ、それはそうですが……それならせめて、ハチロクの詰め所にでもっ」
灼尊が唾をぱっぱと吐き散らす。雪村は少し面白そうな顔をして笑った。
「それでもいいが、お前のような莫迦力がいたらセンが安心して休めないだろう?」
「しかしっ! 夕凪やお婆どのに何かあってからでは遅いではないですか」
「センは悪さをする男ではないと思うがな……そんな度胸もなさそうだ」
「貧弱な見た目で油断させておいて、夜になったら豹変するかも知れません!! そうに違いない」
 ぽんぽんとやり取りされる言葉に、少し呆気にとられてしまう。
(俺、何気なく酷いこと言われている……でも、このどさくさにまぎれて立ち去ろうか)
今なら雪村から逃げ切れそうだ。
「センさん」
名を呼ばれた。
(そうだ、この娘がいたんだ)
雪村と灼尊のやり取りの勢いに気を取られて忘れていた。
「大したことはできないけど、うちに泊まっていきなよ。怪我もしているんだから」
夕凪は笑顔で言ってくれた。
「怪我は大したことないから、大丈夫。それに先を急ぐから」
「でももうすぐ夜だよ。今からじゃもう次の村には行かれない。野宿するしかなくなる」
「野宿くらいいつもの、」
「やめて」
センの言葉を夕凪は、強い口調でさえぎった。雪村たちも言い合いを止めて夕凪を見ている。夕凪自身も驚いているようで、照れくさそうな、気まずそうな苦笑を浮かべた。
「あー、えと。この辺って最近クルイがいっぱい出るようになってね。野宿したら絶対襲われちゃうから、うちに泊まっていきなよ、ね?」
笑顔の奥で、夕凪の瞳は悲しいくらい深い色をしていた。この瞳からは――。
(……逃げられない、か。ただ一晩、泊まるだけなら)
「夕凪さん、では、よろしくお願いします」
 センはへらっと笑って夕凪に頭を下げた。
「もちろん」
夕凪も笑ってくれた。雪村の顔もどことなく満足そうだった。灼尊だけは少し不満な顔をしているけれど。けれど。心の中に温かい気持ちが生まれる。その気持ちを、押し殺す。誰にも見えないように、ぎゅっと手を握った。
(俺には縁のない、気持ちだな)
 センは立ち上がり、空を見上げた。確かに山中の日暮れはせっかちらしい。さっきまで青かった空なのに、もう朱と紫がまじり始めている。
(もうすぐ、夜、か……)
一瞬、どうしようもない感情がセンを襲う。
「センさん、早くいこう。婆さまが心配するから」
 夕凪がセンを呼んだ。
「あー、うん」
「では雪村さま、灼尊どの、また。センさんのことは、おまかせください」
「ああ」
センも雪村たちに頭を下げてから、夕凪についていく。
 そのとき、小声で雪村に呼びとめられる。
「セン」
振り向くと雪村が薄く笑っていた。くらりとするほど綺麗で、不敵な笑み。
「また近いうちに会おう」
センは返事もせずにしばらく、綺麗な微笑を見ていた。自分がどんな顔をしているかわからないが、おそらく良い顔はしていないだろう。
 数瞬、ぴんと張りつめた時が流れた。
「センさーん、何やっているのー、置いて行くよー」
夕凪はすでに六間(約十一メートル)も先にいる。早い。もう一度頭をさげて、センは急いで夕凪を追いかけた。
 背後にはまだ雪村の視線を感じる。雪村はハチロクだと言った。ハチロクの、なんなのだろう? ……もしかしたら。
(あの人は、気づいているのか?)


 雪村は走っていくセンの後ろ姿を見送った。
(セン……もしかして、お前は)
考えても答えは出ず、最後はため息のような苦笑がもれる。
「灼尊に吹っ飛ばされた猪に吹っ飛ばされて、ぴんぴんしているなんて、大したものだな。なあ、灼尊」
後ろにいるはずの灼尊に声をかけるが、なぜか返事がない。
「おい、しゃく……」
灼尊は木の幹に寄りかかり寝ていた。雪村は舌打ちする。
「本当に動物か、こいつは」
(センのことを追いかけていた理由もよくわからないしな)
無思慮なところはあるが、無暗やたらに人のことを傷つけるような奴ではない。今日の灼尊は、おかしい。
(悩みでもあるなら、上役としては聞いてやらねば……十中八九、食い物関係だろうが)
 ため息をひとつつき、たまたまクルイの死骸が目に入り、またため息をつく。舌打ちする。
(またクルイか……昼間から出るなんて、何なんだ)
 クルイは夜に出ることが多い。活動も夜の方が活発だ。黒目が抜けから夜の黒を求めるだとか、月の光がクルイを動かしているだとか風聞されているが、本当の理由はハチロクである雪村にもわからない。
 雪村は三月ほど前からこの地を任されている。配下は灼尊ひとり。あとは詰め所に家事をしてくれる小平次という老爺がいるだけだ。こんなに少数なのは、この地にはクルイがほとんど出ないと言われていたから。報告通りこの地にクルイが出なかったのは、最初の数日だけ。
(ここ三月のクルイの数、尋常ではない)
昼間からもこうして猪のような大型のクルイが出てくる始末だ。
 死んだ猪のそばに屈み、屍骸を見回す。不審な点はない。
(この猪のクルイ……動きがおかしかった)
このクルイはセンの喉元めがけて牙を振り下ろした。夕凪がいなかったらセンは今ごろどうなっていたかわからない。クルイだから生存本能よりも破壊衝動が勝ることは考えられる。だがあまりにも、あの牙はセンを目がけていた。
 それはまるで、センを殺そうとしているみたいに――。こんなクルイ、聞いたことがない。このクルイが特別なのか、それともセンに何かあるのか。
「わからないことだらけだな」
ふう、とため息をつく。今日はため息が多い。
(まあ、センが無事でよかったということで、いったん収めておくか。話は機をみてセン本人に聞こう)
「全く良くないぞ、上手くゆかぬな」
 突然、声が聞こえた。振り返る。
「え、」
子どもだ。奇麗な顔の子ども。眠る灼尊の上に、ちょこりんと子どもが乗っている。あさぎ色の水干を着、さらさらとおかっぱ髪が揺れる子ども。
 雪村の心臓がどくりと鳴る。熱い血が全身をめぐる。
「……何だ、お前は」
思わずつぶやいていた。
「我は、く、る、わ、し」
子どもは遊ぶような口調で、ゆっくりと言う。子どもらしい高く澄んだ声。
 子どもの声が頭の中をぐわんと響く。平衡が乱れる。体が傾ぐ。子どもの言った言葉が「狂環師」だと理解するのに、ひどく時間がかかった。
(くる、わし……だと?)
「上手くない、上手くない。こちらが直ぐければ、あちらは狂う。此方が伸れば、彼方は反れる。まったく世の中、上手くゆかぬな」
子どもらしくない口調で子どもは言う。不愉快そうに表情が歪んでいる。
 雪村の体から力が抜ける。目の前が歪み、暗く、回り、堕ちていく……どこか深い暗闇のなかへ。
 シャン。
錫杖を地面に衝いたような、澄んだ音が森に響いた。

シャンシャン、シャン。
『くるえ、くるえ。』
リャンリャン、リャン。
『ころせ、ころせ』
チャンチャン、チャン。
『すべてクルエば、それがツネなり』
シャンシャン、リャン。
チャンチャン、シャン。
シャンシャン……シャン。



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