千。



誑き花の闇うつろい*2  ||アザムキバナ ノ ヤミウツロイ

 ひゅん、何かが空を切る鋭い音。ぽたりと腿に血が染みる。でもセンに痛みはない。
(あ、れ?)
恐るおそる目をあける。
「うげ」
血を吐いて猪が倒れている。その側頭には矢が一本。死んでいる。
(あの、雪村って人か?)
ぼんやりそう思い、雪村を見るが雪村もセン同様、呆然とした表情で立ち尽くしていた。
(あの人のいる場所からじゃ、顔の横は射抜けないか……じゃあ、誰だ?)
 無意識に横を向き、矢が飛んできた方を見る。遠くに人影が見えた。
(……女?)
目を細め凝らすが、体の痛みが邪魔してよくわからない。人影は落ち葉を砕きながら駆け寄ってきた。やはり、女だ。思いのほか若い女だった。手に弓を持っている。
「大丈夫!?」
 娘はセンの前に屈みこみ、顔をのぞき込んで聞くる。心配そうな娘の瞳。かっとセンの頬に血がのぼる。
「あ、あの。大丈夫、です。俺、体だけは丈夫だから」
センはあせって無理やり立ち上がろうとするが、力が入らなかった。
「無茶しちゃだめだよ」
娘がセンの肩をおさえ、制した。
「そうだ、静かにしておけ」
 娘の後ろから雪村がやってきて静かな声で言った。娘の代わりセンの前に屈み、腹を撫でる。腹の真ん中あたりで鈍い痛みを感じた。
「うっ」
「ここか……猪の頭が当たったところだ。だがお前の様子を見るかぎり、たぶん腹の中身にまで傷はついていない。……本当に丈夫な体だな」
雪村はそう言うと立ち上がり、娘の方を向いた。
「夕凪(ゆうなぎ)、この男は大丈夫だから、そんな顔をするな」
 雪村の表情は優しい。夕凪もほっとほほ笑んだ。
「夕凪、助かった。ありがとう」
雪村が静かな声で言った。もう完全に落ち着きを取り戻したらしい。
「いえ、そんな」
夕凪が微かに頬を染めた。
(なかなか、かわいい)
 十七、八の娘だ。やや面長でなつめ形のぱっちりとした瞳、ふっくらとした頬が愛らしい。ただ着ている物が灰色の筒袖に焦げ茶のたっつけ袴という、およそ女子らしからぬ格好をしている。たっつけ袴は裾がすぼまっていて歩きやすいかもしれないが、
(もう少し綺麗な色の小袖でも着てほしいな)
などと下らないことを考えてしまう。
「ですから、こいつが逃げるからです!!」
 いきなり怒鳴り声が聞こえて、夕凪をとらえていた視線がそちらに向く。大男、灼尊がセンを指さし雪村と向かい合っていた。
「そんな理由でいいわけないだろう、犬でもあるまいし。どうしてこの男が怪しいと思ったのかを聞いている。お前が追いかけたせいで、危うくこの男は死にかけたんだ。……あまりふざけるようなら、灼尊、お前でも容赦しないぞ」
最後の方、ぞくりとするほど低い声を雪村は出した。
 センは思った。見た目といい、剣の腕といい、性格といい――。
(……この人、やっかいだ)
気づかれないようにため息をつく。腹の痛みはだいぶ良くなってきた。
(でもまだ、逃げ切れそうにはないよなあ)
雪村相手では万全の状態でも逃げ切れる自信がない。
「えーとこいつが怪しいから追いかけたので、逃げるから怪しいのですから、えーと、えーと、そういうわけです」
 灼尊が叱られた子どものようにもぞもぞ言う。六尺六寸もある体が、センよりも少し背の低い雪村を前にして小さく見えるからおかしい。
「ほう、それがお前の答えか、灼尊。ならば、」
夕凪があわてて間に入って、ふたりを取りなす。
「雪村さまも、灼尊どのも落ち着いてください、ね?」
 さっきまでクルイに襲われて死にかけていたのに、もうこんな調子だ。なんだが可笑しくて、センは笑ってしまった。
(平和、だなあ)
「お前も笑っている場合ではないぞ」
雪村が話しかけてくる。表情はやわらかいが、じっとセンを見ている。
「セン、という名だな? 灼尊はお前が怪しいから追いかけたと言っている。……セン、お前、怪しいのか?」
「え」
雪村の口調は軽かった。顔も笑っていた。だけれどその目は不思議な色を帯びていた。全然疑っていないようで、実はセンのことを冷静に観察している。
 センは雪村から視線を離すことができなかった。
「えーと、お、俺は」
(あぁ、もう)
こういうとき、すんなり嘘がつけない自分の不器用さが恨めしい。脇の下からいやな汗が出る。怪我のことも忘れ、必死で頭を動かす。
「あーと、あなたの名前は雪村さん、ですよね」
「……ああ、雪村由月(ゆきむらゆづき)だ」
(綺麗な名だ)
名に顔が負けていないところがまた、憎たらしい。
「では雪村さん、お聞きします。どういうわけがあって俺があなた方に俺のことを話さなくちゃいけないんです? 俺は普通に道を歩いていただけなのに。見知らずのあなた方に話さなくちゃいけないだけの理由が、ありますか?」
 良い返答じゃないのはわかっている。セン自身、自分の言葉を怪しく思う。雪村は表情ひとつ変えなかったが、灼尊と夕凪は怪訝そうな表情をした。
 雪村はセンから目をそらさず言った。
「私たちは『ハチロク』だ」
ハチロク――。やけに冷え冷えとした言葉が、頭の中にすとんと落ちる。
 センの体が思わずこわばる。ごつ、と後ろの木に頭をぶつけた。しまった、と思ったときにはもう遅い。雪村はセンの一瞬の変化を見逃していないらしく、視線にきらりと鋭さが増す。雪村も灼尊もやけに場馴れしているから村が雇った盗賊避けの傭兵か何かだろうと思っていた。が、
(まさか、こんなところで『ハチロク』の人間に会うなんて)
 ハチロクとは、葉千緑。ずっと昔から存在する、クルイを狩るための組織。
 狂環師によってつくられるクルイ。虫、魚、獣、鳥……狂環師は生きているものなら何でもクルイにできる。クルイになった生き物は凶暴になり、人を襲う。犬猫畜生ならまだしも、熊や猪が襲ってきたら普通の人には太刀打ちできない。
 だからクルイから人々を守る存在が求められた。それがハチロク。ハチロクの総領は代々、千朱原家が務めているが、そんなこと民は知らない。ハチロクはクルイを狩ってくれる人、ハチロクは強い人、という認識しか民にはないのだ。
 ハチロクをありがたく思わないのは狂環師かクルイ、悪党くらいなもの。『ハチロク』と聞いたときのセンの態度は明らかにおかしかった。雪村に疑われても仕方がない。
 雪村とセン――ふたりは少しの間、まっすぐにお互いを見つめた。雪村の視線は殺気に似たほど冷たいものがある。センは目をそらさなかった。目をそらすのが怖い、というのが本当かもしれない。目をそらした瞬間ばっさりやりそうな雰囲気が、雪村にはある。灼尊と夕凪も異様さを感じ取っているらしい。表情が硬い。
 見つめあう数瞬後、雪村が目の奥でくすりと笑った。途端に場の空気がゆるむ。
(へ?)
「立てるか?」
雪村はセンに手を差し出した。
「あー。は、はい」
返事をするが、雪村の真意がわからず、ただ差し出された手を見つめた。
(なんだ、どういうつもりだ?)
「そう睨むな。私は人を見る目がある方ではないが、お前は悪い奴ではないと思う。そんな気がする」
薄く笑ってそう言うと、雪村は後ろに立っている夕凪を呼んだ。
「夕凪」
「なんですか、雪村さま」
「しばらく、この男をお前の家に泊めてやれ」
「なっ!?」
と言ったのはセンである。
 雪村の言葉に驚いたのは自分だけではないだろうと夕凪を見るが、夕凪はちょっと目をぱちくりさせただけで、
「はい、わかりました。雪村さまの頼みでしたら、よろこんで」
すぐに了承した。本当に嬉しそうな顔をしている。
(雪村さんって、すごい人だな)
 求心力がすごい。灼尊は雪村の配下らしいから言うことを聞くのは当たり前かもしれないが、夕凪は違う。言動を見ているとおそらく村の娘だろう。それなのに雪村をここまで好いているのは、雪村の人柄によるところか。雪村はセンが思うより人間味のある人なのかもしれない。
(恐るべき優男、雪村さん、だ)
見た目が良くて、強くて、性格もいい男なんて……現実にいてほしくない。
(今、目も前にいるけど)
センは苦笑した。



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