千。



誑き花の闇うつろい*1  ||アザムキバナ ノ ヤミウツロイ

 センは走っていた。どこまでも続く、深いふかい森の中を。

 頭の高いところで結った髪が揺れる。ばたばたとはためく羽織が邪魔だ。ちらりと後ろを振り返り、わざとらしくため息をつく。ため息は、喘ぎの中に消えた。
「ったく、しつこい。俺が、なに、したんだよっ」
口に出したつもりだが、これも結局、荒い息にかき消された。
 後ろには男がひとり、ものすごい形相で追いかけてくる。縦横の大きさがあまり変わらない大男だ。背中には丸太みたいに太い棒を背負っている。
「こらこらこら、待て、待てぇ!」
体に負けない大声で大男が叫ぶ。センがわざわざ待たなくても、ふたりの差は縮まる一方だ。
(でかい図体なのに、動き早い……鍛えてるんだな)
 妙なところに感心しながらも、必死で足を動かす。あの様子だと、追いつかれたらどんな目に遭うかわからない。思い切り手を振る。そのとき、センの手が腰に差した刀に触れた。少しだけ、口元が歪む。
(……まったく、使えもしないのにこんなものを持っているから、走りにくいんだ)
刀を外そうと思い、走りながら左手で手探る。でも焦っていて、なかなか上手くいかない。
(まあ、実際は、捨てられるはずもないのか……いっそ捨てられたなら、少しはマシかもしれないのに)
自分のやろうとしていたことを思い、センは自嘲した。
 と、そのとき。ガッという音と衝撃。ふっと体が浮いた――次の瞬間には、
「うべっ」
顔から地面に突っ込んでいた。大きな石につまづいたらしい。落ち葉や小枝がやわらかくセンを迎える。一回ぐるりとまわり、大の字で空を見上げた。
 ふと見上げた、木々の間から見える空がきれいだと思った。
(空が青くて、気持ちいいなあ)
深く呼吸すると、春のまどろむ空気が肺に流れ込んでくる。
 しかしそんな心地良さも、大男のわれ鐘声のせいではたと現実に引き戻されてしまう。
「おぉぉおぉお! 転んだー」
大男の声に驚いたのか、小鳥たちが慌てて飛び立った。
(言われなくても、わかるわ)
センはいらつき、軽く舌打ちした。すっと鼻を撫でると、針でつついたような痛みが走る。
(あらら、いい男が台無しだ)
 苦笑しながら立ち上がる。
「貴様、何を笑っている!」
すぐに追いついてきた大男は、つばをまき散らしながら騒いだ。センはぱっと笑いを引っ込め、大男の顔を見上げる。
(やっぱ、この人、でかいな……驚くくらい)
 センが今まで見たこともないほど大きい。センとて身の丈、六尺(約百八十センチメートル)、やや肉付きが悪いのを大目に見ればかなり大柄な方だというのに、大男の方はその上の上、雲上といっても過言ではない。ぱっと見たとき、七尺(約二百十センチメートル)くらいあるんじゃないかと本気で思った。落ち着いて見ても六尺六寸(約二メートル)はある。歳はセンよりひと回り上――三十くらい――か。
 そして横幅も同じくらいだというところがこの大男が大男たるゆえんだ。ただ太った男ではなく、このでかい体の中身が全て筋肉だとしたら、と考えるとぞっとする。大男が背中に差した八尺(約二四〇センチメートル)もありそうな木の棒が目に入る。
(あんなの丸太じゃんよ……頭の中まで筋肉じゃなきゃいいんだけど)
まんざら冗談でもなくそう思った。実際、大男の鼻息は荒く、食いつきそうな目でセンを睨みつけている。
「貴様、名は?」
 大声を出せいいと思っているのか、大男が聞いてきた。また鳥が数羽飛び立つ。センは辟易しながらも答えた。
「……えーと……センです」
「セン? ……本当だろうな」
大男は疑うような、怪訝そうな顔をした。センは内心ぎくりとしたが、平静を装って「そうです」と答えた。
「セン……そうか、セン、か。なるほどな」
 大げさに頷き、大男はセンの方に一歩近寄ってくる。思わずセンは身を引いてしまう。
「あの……なんで俺のことを追いかけてきたんですか?」
「貴様が逃げるから」
「は?」
男は、貴様は何を当たり前のことをきいているのだと言わんばかりの表情でセンを見ている。センの口がだらしなく開く。
(やべぇ、この人……本当に馬鹿だ)
 こんなところでいつまでも向きあっていても仕方がない。対峙しているだけで寿命が縮みそうだ。センは気を取り直し、人の良さそうな笑みを浮かべた。
(この人なら、難なく言い逃れできそうだな)
「ああ、すみません。あなたの体格があまりにもよかったので、びっくりして逃げ出してしまったのです。お許しください」
慇懃に頭を下げる。
 逃げ出した理由は半分、本当だ。
 センが街道を歩いているといきなりこの大男が現れ「貴様はなんだ」と聞いてきた。男のあまりの大きさに面喰ったのと突然の質問に戸惑っていたので、とっさに答えることができなかった。すると大男が急に鬼のような形相になり「貴様、怪しいな」と言い、背中の丸太棒に手をかけた。それで思わずセンは逃げ出し、今追いつかれた、という次第だ。
「本当に申しわけありませんでした。俺は怪しい者ではないです。ただの旅の者でして、はい」
いかにも情けない声で良い、頭を掻く。
「ふーむ……そうか? だが、刀を持っているぞ」
大男は腕組みし、センの腰を睨んでいる。センの腰には黒塗りの打刀。
「俺みたいなひょろ長の一人旅、護身用に刀の一本も持ってはいけませんか?」
「いや、そんなことはない。男たるもの、自分の身ひとつ守れぬような腑抜けでは話にならん!」
大男が吼えた。
 センは顔には出さず、苦笑する。
(まあ、道中差しというには長すぎるけどな。よかった……単純で。いい人だ)
センが腰に差す刀は二尺四寸(約七十二センチメートル)。れきとした大刀だ。それに対し町・農民が護身用に持つ道中差しは一尺が相場、博徒・侠客の持つ長脇差でも二尺には届かない。
「疑って悪かったな」
 大男がすっかりご機嫌な表情で笑うので、センもやっと一息つく。
「では、俺はこの辺で。失礼しました」
えへら、と笑い頭を下げセンはその場を後にしようとした。元の街道に戻るためには大男の隣を通り過ぎなければならないのだが、何となく気まずい。
(遠回りして街道に出よう)
大男に背を向け、森の中を歩きだす。
「そういうわけには、いかない」
 突然、後ろから寒気がした。大男の声の調子が変わった気がした。ざわざわと森が鳴く。
(いや、これは……違う?)
大男を振り返る。
「クルイだぁぁああ〜〜〜っ!」
大咆哮を上げ背中の棒を引き抜く大男の向こう、森の向こうに――クルイを見た。猪のクルイだ。
 この世には、クルイという魔がいる。
 クルイは人――狂環師(くるわし)によってつくられる。生あるものに不思議な術をかけて、クルイはつくられる。クルイになった生き物は凶暴になり、人を襲う。
 クルイは、人によってつくられる――。
「おい、後ろに跳べ!」
どこかから大男じゃない男の声がし、センははっと気がつく。猪のクルイは大男の脇を通り抜けセンの目前に迫っていた。体が、動かない。
 ちっ、と耳元で舌打ちされる。とんと肩を突かれ体が傾ぐ。地面に倒れるまで、ひどく時間がかかった気がした。目の端を長い髪がひらめいていく。
 鈍い音と猪の咆哮。尻もちをついたセンの顔に赤い血がかかった。猪は向きを変え走っていく。目の前に、血のしたたる刀を引き下げた男が立っていた。
「下がっていろ」
少しだけセンの方を振り向き、男が言った。低く重みのある声だった。歳は灼尊と同じくらいか。
(おぉ、かっこいい人だ)
一瞬、男であるセンでさえも見とれてしまうほど綺麗な顔。白い肌、通った鼻筋、少し上がり気味の目じりから凛とした印象をうける。見た目は優男だがしかし、今の動きをみる限り刀も相当遣うだろう。
「雪村さん! どうしてここに?」
 大男が驚いたような声を上げる。
「お前が交代の時間を過ぎても帰ってこないからだ」
優男は冷めた口調で言う。刀を構えなおし、
「ほら、気を抜くな。来るぞ」
と森の奥を見た。顔を半分切りつけられた猪のクルイが大男めがけて猛進してくる。優男は駆けだし猪の腹に刀を突きたてようとしたが、尻尾を切り落としただけだった。
「灼尊!(しゃくそん)」
「はい、雪村さん」
 攻撃が不発に終わっても優男は慌てない。大男は目をぎらぎらさせ、丸太棒を構え、猪を待ち受けた。
(場馴れしてる……)
「どりゃあああぁっ!」
猪のそれ以上に豪快に吠えると、大男は猪の横っ面を殴り飛ばす。猪は牙を折られ、小石のようにすっ飛んだ。
 しかし。
「莫迦! 避けろっ」
優男が叫ぶ。たぶん莫迦の部分は大男、避けろはセンに向けられたもの。
(っ! くそっ。よりにもよって)
猪の巨大な図体が、センのもとへ飛んでくる。
 避ける間もなく、ぶつかる。痛みよりも先に、猪の毛むくじゃらと体温を感じた。次に重み。衝撃は、一気にきた。
「ぐぅっ」
センに激突しても猪の勢いは収まらず、センもろとも吹っ飛ばされる。
ガッ
(あつい……)
目の前が真っ白になり、真っ赤になり、少し陰って、元の景色になった。
(やっと止まった)
 立ち木にぶつかって止まった。おかげで痛いところだらけだ。鼓動に合わせ痛みが増す。頭の後ろはずきずきと、背中は鈍く、猪に突進された腹はとにかく、あつい。
ブロォ ブロォ
猪はよろりと立ち上がり、センに片牙を構えた。センはなぜだか笑ってしまう。
(はっ、大した生命力だ)
 クルイになると、ちょっとやそっとでは死なない。頭や心臓をつぶさない限り、殺すのは、難しい。
「笑っている場合ではない! 逃げろ」
優男が遠く叫んでいる。さっきまで近くにいたのに、五間(約九メートル)も向こうにいる。やっぱりセンは笑ってしまう。
(並はずれもいいところだ、灼尊って人)
 朦朧とする意識のなか、猪の顔だけがよく見える。半分潰れた顔。潰れていない片方の目は、白い。クルイ一番の特徴だ。クルイになると黒目が抜ける。どうして黒目が抜けるのか、センにはわからない。
 猪はセンの喉元に牙を振り落とす。春のまどろむ陽光に、牙についた鮮血が反射した。きらきら光る。
(綺麗な、ものだ)
センは思った。牙の先と喉笛までは三寸(約九センチメートル)もない。逃げなければ、と頭の利口な部分が言っているけれど、きらめく血の綺麗さに見とれ、動けない。
 センは自分でも知らないうち、口元の笑みを濃くしていた。
 もう避けるのは無理だ。
 目をつぶっても痛みが消えるわけではないが、目をつぶる。目の前が、真っ暗になった。



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